説教者 新澤幸子
マタイの福音書6:9~13
前回は初めの三つの祈りから話しました。
マタイ6:9-13の中に主の祈りが記さています。ここには、私達が祈るべき祈りの模範を見ることができます。
「御名をあがめさせ給え」、「あがめる」のギリシャ語は、聖別する、聖とする、という動詞が使われています。神が神として崇められることです。
「御国がきますように」、御国とは神のご支配のことであり、また、天にある神の国の事です。神の支配が天にあるように、地でもありますように。
「みこころが行われますように」。神のなさることは最善です。神のみ心がなされるならば、幸いです。
主の祈りの始めの三つは対神関係の中での祈り、後の三つが私達に関する祈りです。今朝は後半の三つの祈りからお話しします。
Ⅰ、日毎の糧を今日も与えて下さい。
「糧」は、生きて行く事の根本で、存在のためには不可欠です。「日毎の糧を今日も与えて下さい。」との祈りには、私達の日常の全ての必要が含まれています。ですから、日毎の糧を今日も与えて下さい。との祈りは、生きていくことにつらなった祈りです。
被造物の世界では、神の手によって造られた命が糧になっています(創世記9:3)。与えてくださったお方に、今日も与えて下さいという祈りが、「日毎の糧を今日も与えて下さい。」と祈る祈りです。
昔、イスラエルの民は、出エジプトをして、40年荒野を旅しました。神はマナを降らせて下さり、民は40年間マナによって養われました。今日も、神は養って下さるお方です。
「私たちの」と書いてあります。これは、「日毎の糧を今日も与えて下さい。」という祈りが、周囲の人々を含んでいることを意味しています。周りの人にも糧が与えられることを心にとめて、周囲を顧みることの大切さを教えています。
Ⅱ、私達の負いめをお赦しください。
負いめは借りの事ですが、ここに出てくる負いめは神に対する負いめで、罪、過ち、咎を意味しています。
私達は負いめから免れる事が出来ない存在です。負いめを持ったままでよいのではなく、負いめを赦して下さい。と祈るように主は教えて下さいました。
私達はイエス・キリストの贖いによって、赦していただきました。赦していただいた、恵みを受けています。赦していただいているのに、赦さないなら、主は「あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しになりません。」と言われました。
ポウロ・リース師は、私達に対して悪意がなく、良くないことをする人に対して、忍びなさい。さらに悪意を持って、何かをする人を赦すことだと教えました。赦しとは忍ぶことと赦すことです。イザヤ書では罪について、神は海の深みに投げ捨てたと記しています。赦すという事はどんなことがあっても流す、無くすことです。
私達は神の前に罪人でした。しかし神は私達に罪があったのに、罪がなかった者にしてくださいます。赦しは大切なことです。
Ⅲ、試みに会わせないでください。
生活の場では、人間の心にあるものが現れています。試みとは、生活の場での悪へのいざないです。
「悪からお救いください」。悪とは何でしょうか。善なるお方から引き離し、悪にひっぱっていくなにものかです。
善なる者に生きる幸いがあります。その反対には、悲惨さがあります。悪はその人を滅ぼします。主は「悪からお救いください。」と祈りなさいと教えて下さいました。
悪しきものとはサタンです。サタンはクリスチャンに対しては神から引き離そうと働きます。これがサタンの働きの中心で、サタンに人は太刀打ちできません。私達は祈らなければなりません。サタンの力に対抗できません。神の御手に守られて、悪から救ってくださいと祈りましょう。
結
主の祈りが私達の祈りになって、歩んでいきましょう。主の祈りは私達の信仰生活を支えてくれる祈りです。
( 記 新澤昭彦)
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