牧師 新澤昭彦師
聖書箇所 ヨハネの黙示録7:9-17
黙示録は難しい聖書です。
けれども、1:3に「この預言のことばを朗読する者と、それを聞いて、そこに書かれていることを守る
者たちは、幸いである。」と書いてあります。
黙示録を知る事は祝福につながっていきますので、できる限り聖書に忠実に話させていただきます。
7章1-8節には、印を押された144,000人が記されています。
9-17節には、救われた大群衆が記されています。
9-17節に出てくる群衆は、「すべての国民、部族、民族、言語から」とありますから、世界中の人で
す。そして14節に「この人たちは大きな患難を経てきた者たち」とありますから、彼らは、患難時代
に、信じて、救われた人々で、殉教して人々と思われます。しかし、私達は彼らと共通する信仰経験
をしています。彼らの信仰より、私達の事として、聖書を見ましょう。
一、白い衣
9節に、「だれも数えきれないほどの大勢の群衆が御座の前と子羊の前に立ち、白い衣を身にまと
い、」と書いてあります。天の神と主イエスの前で、讃美し、礼拝をささげている人たちは、白い衣
をきた人達でした。
彼らは、「救い」(10)を讃美しています。彼らを救って御座に着いておられる神と、子羊を讃美し
ています。白い衣は救われて義の衣を着た人々です。
すべての人は罪を犯したので、神の栄光を受けられなくなっています(ロマ3:23)。罪があるなら、
神との交わりはありません。永遠の命はありません。全ての人は救いを必要としています。
彼等は福音を聞き、心に光を受け、自分が滅ぶべき罪人であると知りました。
また罪を赦すために十字架にかかり、贖いを成し遂げて下さったイエス様を知りました。
そこで、悔い改め、十字架にかかられたイエス様を救い主として信じ、救われた人々です。
彼らは救われ、義と認められ、自の衣を着た人々です。私達も、かつては罪人でした。
しかし今は、キリストを信じて救われ、義の衣を身にまとっています。
さらに白い衣は心のきよめと、きよい品性を意味しています。
「この人たちは・・・その衣を洗い、子羊の血で白くしたのです。」(14)と書いてあります。
小羊はイエス様です。
「子羊の血」とは、心をきよめるために十字架の上で流されたキリストの血潮です。
「御子イエスの血が全ての罪より私達をきよめます。」(第一ヨハネ1:7)と約束されてます。
神の御心は神の子たちが清くなることです。人は自分できよくすることは出来ません。
心を清くする方は神です。神様に全てをささげ、そしてイエスの血が私をきよめると信じるなら、
神は心の汚れをきよめて下さいます。さらに清い心と生活を願いキリストの血に信頼しながら、
信仰生活をしていくならば、きよい品性が培われ、神は白い衣を着た人として下さいます。
二、信仰の勝利者
だれも数えきれないほどの大勢の群衆が御座の前と子羊の前に立ち、白い衣を身にまとい、手にな
つめ椰子の枝を持ってい」ました(9)。ナツメヤシの枝を振ることは勝利を喜ぶ事です。
彼等は、信仰を守り通し、大きな患難を経て、信仰を守り通し、救いを完成しました。
そして天に凱旋しました。信仰生活は戦いがあります。
それは救われた人々から信仰を奪おうとして誘惑し、挑んでくるサタンとの戦いです。
彼等は患難時代に救われました。それは反キリストが支配している時代ですから、信仰を持ち続けて
行く事は困難で、信仰の戦いがありました。反キリストは、キリストを信じる人を探して、牢に入れ
ます。拷問します。彼等は苦しめられ、多くの信徒が殉教しました。
しかし彼等は敗北したのでなく、サタンとの戦いに勝利し、救いを完成し、天に凱旋しました。
信仰の戦いは患難時代だけではありません。私達にも、信仰の戦いはあります。
病や経済的な危機、信仰の反対に会う事があります。
サタンは、キリストを信じる信仰を捨てるように、ささやきます。
苦しい時だけでなく、世的な繁栄や、楽しみを見せて、信仰から離れるように、サタンは誘います。
信仰の戦いに勝利し、救いを完成した人が、栄冠にあずかる事が出来ます。
私達は平和の時代に生きています。
時代の背景は違いますが、信仰を持ち続け救いを完成するために信仰の戦いあります。
キリストを信じる信仰に立ち、救いを完成しましょう。
そして信仰の勝利者とならせていただきましょう。
三、主が牧者
「 彼らは、もはや飢えることも渇くこともなく、太陽もどんな炎熱も、彼らを襲うことはない。
御座の中央におられる子羊が彼らを牧し、いのちの水の泉に導かれる。」(16-17)
「もはや」とありますから、彼らの地上生活では、欠乏がありました。
しかし今は欠乏がありません。子羊が彼らを牧して下さるからです。
昔は羊飼が羊たちを檻から出して、良い牧草地のあるところに導き、養いました。
良い牧者はいのちの水の泉に導かれます。命の水のほとりには、憩いがあります。潤いがあります。
その潤いによって、疲れた体も生き生きとなります。ここで使われている命は、ゾーエです。
肉体のいのちではなく、内面的な命です。
揺るがない心を持ち、心に喜び、平安を持ち、そして消えない希望を持って生きるように、
魂を生かす水で潤して下さいます。
四、目の涙を脱いとって下さる。
17節に「神は彼らの目から涙をことごとくぬぐい取ってくださる。」とあります。
患難時代の聖徒は迫害、拷問を受け、多くの殉教者が出ました。けれども、クリスチャンはその中で
真実に神を信じ、信仰を守り通しました。彼等はどんなに苦しい中で信仰を守ってきたことでしょ
う。涙をこらえ、真実にイエス様に従いました。天に帰った時、主は、信仰の戦いをよく戦ったね、
私に対する信仰を捨てず、よく耐えて、私に従ったね、とイエス様の声を聞く時、涙があふれて、涙
を止めることが出来ません。主自らが、彼らの目の涙をぬぐい取って下さいます。それは天的な深い
慰めを表しています。
迫害時代ではありませんが、私達の人生は涙を流すような苦しく、辛い中を通る事があります。その
中で、主を愛し、信頼し、そして主に従っていこうと、今日まで生きてこられました。あなたの真実
な信仰は神に覚えられています。そして天国に帰る時、神様は、私はあなたの真実な信仰生活を知っ
ているよ。よく私の名を否まず、私に従ってきましたね。と言葉をかけて下さいます。その時私達の
目から涙があふれてくるでしょう。神御自身がわたしたちの目の涙をぬぐい取って下さり、天の慰め
を与えてくださいます。
主は私達を贖い神の家族として下さいました。私達は主のものです。
信仰を告白し、真実な心をもって、神の前に歩んでいきましょう。
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