エレミヤ29:10-14
昔、エレミヤという預言者が、「もし、あなたがたが心を尽くしてわたしを捜し求めるなら、わたしを見つけるだろう。」(エレミヤ29:13)と神の言葉を伝えました。
真の神は目に見る事が出来ません。科学的な知識では、神の存在を証明する事が出来ません。けれども、人が神を知る事が出来るならば、そして神に信頼し、神と共に生きるならば、どんな時にも、平安な心を持って、確信のある人生を生きる事が出来るはずです。
聖書講座「始めの一歩」第一課は、「神を知る喜び」です。
神は聖書を通して、「心を尽くしてわたしを捜し求めるなら、わたしを見つける」とおっしゃいました。この聖書講座は全部で15課あります。
この聖書講座を通して、あなたが知的に神はどのような方かを理解するだけでなく、神との交わりの中に、心で神を知る事が出来ますように願います。
Ⅰ 神を知る喜び
詩篇73:28をご覧下さい。
「しかし、私にとっては、神の近くにいることが、幸せなのです。」
この詩篇を詠んだ作者は、誇り高ぶる者、悪者が栄えるのを見ていました。そのために作者は心に苦しみがありました。彼は神を信じ、真実な正しい生活をしていました。しかし貧しさや、高ぶる人々から苦しめられる難しい対人関係があったのだと思います。
神に礼拝をささげ、神と永遠を思い巡らす前は、悪しき人の繁栄、高慢な態度が彼の心を悩ましました。しかし今は神を望みとし、心から神の近くにいることが幸せなのです。ということができるようになりました。人の生活や、人の高慢な姿勢をみて、心がいらいらし、それを裁いていたなら、幸せになる事はできないでしょう。もしそれで人々を批判していたなら、心は暗くなり、幸せになる事ができません。幸いなことは神の近くにいることなのです。神の近くに生きるなら、たとえ、病や、貧しさの中に生きることがあったとしても、幸せな生活をすることができます。
皆様にとって幸せとは何でしょうか。詩篇の作者は、「私にとっては、神の近くにいることが本当の幸福なのだ」と、告白しています。
だれでも幸福を求めていると思います。幸せとは何でしょうか。
ある人は富や地位の中に幸福を求めます。またある人は美しさの中に幸せを求められます。若者は、幸せを与えてくれるのは、良い友人関係と思い。またある人々は家族と思います。それらを得ても、心の中に何か空虚さを感じたり、孤独を感じて、満たされた心を持っていない人は沢山います。しかし病や、貧しさの中にありながら、神の近くに生活をして、喜びに輝いて生涯を送っている人々がいるのです。
18世紀のイギリスにジョン・ウェスレーという聖職者がいました。彼はメソジスト運動の指導者でした。彼は全英国を馬にまたがって回り、説教いたしました。彼の活動により、多くの人々が救われ、メソジスト運動と言う大きな働きとなりました。彼の残した業績、影響力は多方面に渡ります。彼は88歳で、天国に召されます。彼が最後に残した言葉は、
「最もよいことは、神がともにいることである。」と言いました。成功や、多くの人の尊敬を受けたことでなく、彼にとって、神とともにいることが幸いでした。
フランスの数学者であり思想家であったパスカルが「パンセ」のなかで、こんなことを言っています。「神を知ることなしに、幸いがないことは確かである。神に近づくにつれて幸福になることも神を確実に知ることが、幸福の究極だということも確かである。また神から遠ざかるにつれて不幸になることも、先に述べたことの逆の確実さが不幸の究極であることも、確かである」。神を知ること、そして神に近付き、神と共に生きることこそ幸いなのです。神との交わりの中に、魂は生かされ、永遠に消えない喜び・平安・愛の中に生きることが出来るのです。
Ⅱ 神の語りかけ
人の魂を潤すお方は神です。それではどうしたら私達は神を知ることが出来るのでしょうか。有限な人間に、その有限の限界を超えた所にいらっしゃる、無限の神を知ることが出来ません。哲学者は、神を求め、優れた思想によって、神の存在証明をしようとしました。
しかし理性によっては、いける神に近付き、神と交わることが出来ません。ある人々は石や木を刻んで神のかたちを造り、人の手で造った神に祈り、拝みました。しかしそれらは、偶像であって、人を助け、救うことが出来ません。
もし人が神を知ることが出来るとするならば、それは神の側から語りかけ、神をあらわしてくださらなければなりません。
神は生きた人格を持った方です。そして愛の神です。神の側から、神の心、神の愛を伝えようとしています。目に見る事が出来ない神が人に分かるように神を表わして下さいました。隠れておられる神が、神の方から神を表わして下さることを啓示と言っています。
その啓示によって、神がいますことを知り、神がどのような方かを知り、神の御心、神の約束、人類に対する神の愛を知ることが出来るのです。
この啓示には、一般啓示と特殊啓示があります。
一、一般啓示
一般啓示とは、だれもが理解できる方法で、神がいらっしゃることを神は教えてくださることです。一般啓示は自然、あるいは歴史などです。
聖書の始の言葉は、「はじめに神は天と地とを創造された。」(創世記1:1)です。聖書は、神様が世界をおつくりになったと言う宣言から始まっています。
またローマ人への手紙 1:20を開きますと、「神の見えない性質、すなわち、神の永遠の力と神性とは、天地創造このかた、被造物において知られていて、明らかに認められるからである。したがって、彼らには弁解の余地がない。」と記されています。
私達は四季折々の自然の美しさに触れます。四季にそれぞれ美しい花が咲きます。山に行けば、深い緑と、そして四方に、高い嶺が連山となって、重なり合っている景色を見、海に行けば広い海原と、複雑に入り組み、海岸線の崖に力強く枝を伸ばしている松などを見て、しばらく足を止めるほど、美しい景色を見ます。
自然は美しいだけでなく、そこにある精密な知恵、あるいは力を私達は感じます。
そのような自然を見るとき、人間を超えた大きな力、神の存在を覚え、あるいは畏怖の念をいだきます。自然は神の作品ですが、自然は神がいますと、私たちに語りかけています。
二、特殊啓示
特殊啓示とは、さらにはっきりと神が特別な方法で私たちに神を知らせた啓示です。特殊啓示には聖書と・イエス・キリストがあります。
A、聖書
聖書は特別な書物です。英語で聖書をBIBLEと言います。bibleとは、もともとは単に書物を意味する言葉です。しかし聖書は、bibleではなく、The Bibleと定冠詞をつけて読みます。「その」と指定された書物です。世の中には沢山書物があります。それらの書物は全て、人が書いた書物ですが、聖書はそれらの書物から区別されて、The Bibleと言われています。こういわれるのは、聖書が神の言葉だからです。
テモテへの手紙第二3:16を開きますと、「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。」と書いてあります。
聖書は神の言葉といわれます。神が人類に与えと書物と言う意味でこの言葉が使われています。神は無限のお方であって、人が眼で見たり、理解し尽くすことができる方ではありません。もし人が神を知ることが出来るとするならば、神の側から語りかけ、神の側から教えていただかなれば神を知ることは出来ません。聖書は啓示の書物です。聖書の著者は40数名います。その著者たちは神に従う、敬虔な信仰者でした。神は彼らに霊感を与えて、神の言葉を書かせなさったのです。実際に筆を取ったのは記者達です。それぞれの書が記者の特色を持っていますが、神は彼らに霊感を与えて、神の言葉を書かせなさいました。その意味で、聖書は誤りがない神の言葉です。始めは羊皮紙の巻物でした。後には、パピルスなどが使われました。そして今日は印刷された本として、私たちは聖書を手にすることが出来ます。聖書の文字は活字であり、そして他の書物と同じように、印刷された書物です。しかし聖書は神の啓示の書であり、聖書を通して神が人類に語りかけている書物です。神は目に見えません。
神の声は耳に聞こえません。しかし聖書を読む時、聖書から私たちは神の声を聞き、神を知ることが出来るのです。
B、イエス・キリスト
神は神の御子イエス様を人としてこの世界に遣わされました。イエス様を知るとき、私達は神を知ることが出きるのです。ヨハネの福音書1:1をご覧下さい。
「初めに言があった。言は神と共にあった。ことばは神であった。」
ここにある始めは、世界が創造される以前のことを言っています。イエス様は世界が造られる前からいらっしゃいました。そして父なる神と共に世界を美しく創造し、そこに人を造ろうと考えていらっしゃいました。父なる神は御子イエスによって、万物を造られたのであります。イエス様によって全てのものは造られました。
「言は神と共にあった。」
「言は神であった。」
イエス様は御子として父なる神と共にありました。又イエス様は神御自身であります。
聖書ははっきりと、イエス様は神様であることを教えています。
ヨハネの福音書1:14節に、「ことばは人となって、私達の間に住まわれた」と書いてあります。神御自身である「ことば」=イエス様は、人となられました、私達と同じ肉体を持って、住まわれた。私たちと同じように歩まれ、人とともに行動し、生活されました。
またヨハネの福音書1: 18節には、「いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。」と記されています。
神を見たい、そして神の真の姿を知りたい。それは人間の願いです。しかし神様は見ることが出来ません。神は霊ですから、人の肉眼で神を見ることが出来ません。天地万物を創造された方は、宇宙のはじからはじまで造られた方です。このような広大な宇宙自然を創造された方は、人が目で見ることができるように方ではありません。
もし神をみて、神の真の姿を知ったなら、そして神に知られているなら、安心し、揺るがない人生を過ごすことが出来るでしょう。
もし神の真の姿を知ったなら、自分の人生の目標をしっかり持って、くいがない人生を生きることができるでしょう。
もし神の姿を見ることが出来るなら、私達は真理を知ることが出来るでしょう。
聖書は神のことばです。私達は聖書により神を知ることが出来るのです。
イエス・キリストを見るときに、私達は真の神を知るのです。イエス・キリストを見るときに、神の真の姿を見るのです。
神はこのように、聖書を通して、またイエス・キリストを通して語りかけ、御自身を人類に現わしてくださいました。
私達の本当の幸いは神を知ることです。神は、あなた方が心を尽くして、私を捜し求めるなら、私を見つけるとおっしゃいました。
私達は聖書、そしてイエス・キリストにより神を知ることが出来るのです。
人は心の奥底で神との交わりを求めています。神から離れている時、心に空しさ、不安、渇き、孤牡感などがあります。神に近づき、神と共に歩む中に、朽ちない喜び、平安、希望があります。「私にとっては、神の近くにいることが、幸せなのです。」本当の幸いは神に近付き、神と共に生きる人生にあります。心を尽くして神を捜し求めるなら、神との出会いを経験するでしょう。聖書講座を通して、みなさまが、まことの神を知り、幸いな人生の道を歩かれますように願っています。
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