第二課   「聖 書」

アメリカの十六代大統領アブラハム・リンカーンは、

 「私は、聖書をこれまでに神が人類に与えた最上の賜物と信じる。世界の救い主から発する一切のよきものは、この書を通してわれわれに伝達される。」と言いました。

リンカーンは奴隷解放をした大統領として有名ですが、彼は敬虔なクリスチャンでした。

リンカーンは幼少時代、貧しい家庭で生活をし、母を無くしました。彼の母は、聖書を読むように告げて世を去ったそうです。貧しい農夫の子として育ったリンカーンが、後に国民から尊敬を受ける大統領になった背景に、聖書があったと言っても過言ではありません。

 今日、政治・経済・医療・その他の分野で、様々な問題が生じています。この時代の中で、私たちが迷わず、いつも希望を持って明るく生きることが出来るのは、聖書のみ言葉の中に生きることではないかと思います。聖書の基本的な教えを学ぶことは、きっと皆様の人生に、光をもたらすことでしょう。

 聖書は大きく新約聖書と旧約聖書に分けられています。新約聖書は27巻、旧約聖書は39巻、合計66巻が一冊になっています。聖書の執筆の年代は学者によって違いがありますが、創世記はBC1450年頃、最後のヨハネ黙示録はAD90年頃記されました。その著者は40数名で、様々な職業の人でありました。たとえばダビでは王でした。イザヤは宮廷に出入りする預言者でした。アモスは農夫でして。パウロは学者であり、ペテロ、ヨハネはキリストに従う前は漁師でした。こんなに長い間、そして様々な背景を持つ人々によって執筆されましたが、聖書は矛盾がなく、誤りがなく、一貫性があるのです。しかも聖書の最初のページが記されてから、1900年以上の年月が過ぎていますのに、今日もなお、世界のベストセラーさして、広く読まれているのです。そして教育・政治・科学・芸術などに、聖書は多大な影響を与えてきました。今日、教育・文化・科学は著しく進歩しました。この時代に、聖書は多くの人に読まれ、そして人々の心に愛・喜び・平安・潤いをもたらしているのです。


Ⅰ 聖書は神の言葉です。

 聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。

テモテへの手紙第二3:16

 前回、聖書を神の啓示の書として紹介しました。聖書は霊感によって記され、神が人類に与えた唯一の書物です。聖書は誤りがない神の言葉なのです。聖書は他の書物と同じように、印刷された書物かもしれません。しかし聖書は神のことばであり、聖書を通して神が人類に語りかけているのです。聖書を読む時、聖書から私たちは神の声を聞き、神がどのようなお方か知り、また神の御心を知ることが出来るのです。

 聖書をキャノン(経典)と言われますが、キャノン(経典)は「はかりさお」「ものさし」を意味するラテン語です。神の言葉である聖書は人生と善悪に正しい基準を与えます。もし基準が違っていたなら、社会は混乱するでしょう。みんなが自分の価値観で物事を測ったら、どんなに生活は息詰まることでしょうか。聖書によって私たちは正しい規範を知り、人生に誤りがなく、確信のある生き方をすることが出来るのです。


Ⅱ 御言葉はいつまでも変わることがありません。

 人はみな草のようで、その栄えは、みな草の花のようだ。草はしおれ、花は散る。しかし、主のことばは、とこしえに変わることがない。」とあるからです。あなたがたに宣べ伝えられた福音のことばがこれです。

ペテロの手紙第一1:24.25

聖 書には、「しかし、主の言葉は、とこしえに変わることがない。」と記されています。御言葉はいつまで変わることがありません。聖書の初めのページが記されたのは、今から3450年も前、聖書の終わりは、ヨハネによってAD90年頃にかかれました。それから2000年間、聖書は神の言葉として世界中の人々から読まれています。世界の歴史は、ギリシャ文化の時代、中世のカトリック支配の時代、ルネッサンス、宗教改革、産業革命、近代、そして今のIT革命へと大きな変化を通ってきました。しかし聖書は神の言葉として読まれ、今日、現代に生きる私たちの心の糧となっているのです。

 これからいろいろな面で、世界は変わっていくかもしれません。しかしどんなの世界の歴史が変わっても、聖書はいつまでも変わることがありません。

 時代が変わっていくとき、人々は動揺を感じます。たとえば、職場の体制は、年功序列制から、能力主義に代わってきています。以前は小売店を守るために、大型店舗への規制がありました。今はその規制もなくなっているようです。金融や、保険が自由化されてきています。しかし私たちは、いつまでも変わることがない確かなものを持っています。それはいうまでもなく、いつまでも変わることがない神ですし、また神の言葉である聖書です。

 私たちは、誠実で親切、その姿勢がいつまでも変わらない者に信頼を感じます。聖書はとこしえに変わりません。ですから聖書に私たちは、信頼を置くことができますし、聖書は信頼に応える神のみ言葉です。もし御言葉から離れるなら、私たちの歩みを見失うかもしれません。しかし御言葉に立ちつづけていくとき、確信のある、揺るがない生き方をすることが出来るのです。とこしえに変わることのない、御言葉にしっかり根ざし、御言葉の上にたって歩んでまいりましょう。


Ⅲ 御言葉は人生に光を与えます。

 あなたのみ言葉は私の足のともしび、道の光です。

詩篇119:105

 人生は光を必要としています。青年時代、わたしは闇の中を手探りで歩いているような思いがしていました。そしてどこに光があるのだろうかと何かを求めていました。人生はなんか、生きる目的は何か、そして心が満たされ、確信のある人生を送りたいと考えました。他の人は心が満たされ、何か自分だけが取り残させているようであせりを感じていました。クリスチャンになってから、

 人生を考え、多くの人が、人はどこからきたのか、どこへ行くのか、何のために生きているのか、三つのことを求めています。私も青年期に「人は何のために生きるのか」、人生の目的を求めていました。そしてそれがわからない間は、心は闇でした。私はいろいろ考えたり、試して、最終的に仕事の中に人生の目的を見出そうと考えました。しかし仕事をするなら、牛や馬も仕事をします。しかし人間として、他の動物とは違った何かがあるに違いない、その何かがわからないで、心は闇の中にとどまっていました。その闇に光を与えてくれたのは、聖書でした。

 聖書は、人間は何かを教えていますし、人生の目的を教えてくれます。聖書は永遠の命を約束しています。そして聖書は確信と喜びに満ちている人生に私たちを導いてくれます。聖書は私の道の光、道を人生と理解しますなら、まさに聖書は私たちの人生に光を与える書物なのです。

 足のともしびとありますが、ともしびというのは、大きな光でなく、ろうそくやランプのように、足元や手元を照らす、小さな光ではないでしょうか。私たちが生活をしているときに、さまざまな問題の直面します。そのとき、私を導き、私の歩みを照らしてくれる光を必要とします。聖書はそういった実際の問題に光を与えて、私たちを導き、助け、教えてくれます。御言葉は、神の言葉です。そして私たちに語りかけている神の言葉です。今生活をしているそのことに神は御言葉を持って、教え、導き、励まし、慰めてくださるのです。まさに御言葉は私たちの人生と生活のともしびであり、光であります。

【公式】西調布キリスト教会

この教会は、メソジスト系の聖書信仰に基づくプロテスタントの教会です。 聖書から、神の愛のメッセージが語られています。 東京都調布市上石原2-26-13( 京王線西調布駅より徒歩3分) ☎042-485-1351

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