第三課 「神の本質」

初めに、神が天と地を創造した。創世記1:1


 前回は聖書について学びました。聖書が書いている神は、どのようなお方なのか、学びましょう。

 聖書は、神様が世界をおつくりになったと言う宣言から始まっています。神は天と地にあるすべてのものを創造され、それを支配し、守っておられる方です。それが聖書に書いてある、そして私達が信じている神様です。神はすべてのものの創造者です。

 詩篇19:1には、「もろもろの天は神の栄光をあらわし、大空はみ手のわざをしめす。」と創造主なる神が讃美され、詩篇 136:5では「知恵をもって天を造られた者に感謝せよ、そのいつくしみはとこしえに絶えることがない。」と讃美が歌われています。

 天地万物を造られ、それを保っている神様はどのような方でしょうか。今回は、「神の本質」について学びます。


Ⅰ、神は唯一です。

 「神は唯一です。また、神と人との何の仲保者も唯一であってそれは人としてのキリスト・イエスです。」(第一テモテ2:5)

 宇宙には不思議な統一があること、そしてその秩序の中に地球環境が守られていることはだれもが認めることではないでしょうか。またミクロの世界を見ても、そこには宇宙大の不思議な仕組みがあります。宇宙と世界を創造なさった神は、何人もいるはすがありません。もし宇宙・自然の作者が別々であったなら、宇宙及び自然の秩序はたちまち崩れ去ることでしょう。天と地を創造された真の神は唯一であって、他に神はありません。一家にお父さんが一人であるように、天から私達を見つめ、愛され、幸いに導こうとしている神は唯一なのです。

 聖書は、神が唯一であるといっている時、複合的単一を表わす用語を使っています。父なる神、御子イエス・キりスト、そして聖霊なる神が神であり、この三位の神が全く一致して、一つの神として働いていると教えています。


Ⅱ 神は霊です

 「神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」(ヨハネ4:24)

 神は本質的に霊です。霊とは、なんでしょうか。ムーデー聖書学院の院長だったR.A.トーレーは「霊とは、形体がなく、目に見ることが出来ない実在である。神が霊であると言うことは、神は形体がない、目に見えないお方であるということである。」と説明しました。やはりムーデー聖書学院院長であったエバンスという学者は「神は物質的存在ではない。ラプラスは『望遠鏡でくまなく宇宙を探したが、どこにも神を見出すことができなかった。』といった。彼はちょうどほうきで台所を掃くように考えたのである。神は物質的存在でないから、物理的方法によって理解することが出来ない。」と言いました。

 霊とは、肉体を備えていない、目に見えない存在をいいます。神は霊ですから、人間のように、目に見えるかたちで姿をあらわして、行動することはありません。「神がいるなら見せてみろ。」と、批判される方がありますが、神の本質を理解していないための発言です。真の神はこの世界と宇宙を創造なさり、それを保っていらっしゃる方ですから、形や、人間の考えに制限されるような方ではありません。

 ある人は、神はいると思えばいるし、いないと思えばいない、私は神に頼らなくても生きていけると考えます。

またある人は自分の手で神を作ります。しばしば人は心の安心や確信を得ようとして、目に見えない神を様々な形に造り、それを神として拝みます。しかしそれは人間が造った神であり、偶像ですから、苦しみから人を助ける事が出来ません。

神は霊ですから目に見る事が出来ませんが、私達は、神がいらっしゃると確信しています。それは、私達が神を考え出したのではなく、第一課で学びましたように、啓示に基づいています。神は霊ですから目に見ることができません。また神は無限のお方です。有限な私達に神を知ることはできません。私達の前に、神というお方はベールに包まれて、見ることも、知ることもできません。そのベールに包まれている神の側から、神はこういうお方だと明らかにしてくださいました。聖書によって、私達は神を知り、神を信じて、神がいますことを確信し、神と共に歩むことが出来るのです。


Ⅲ、 神の人格性

 「しかし主はまことの神、生ける神、とこしえの王。」(エレミヤ10:10)

 神は霊ですから、わたしたちの目に見ることが出来ません。目に見えないからいないのでなく、神は人格をお持ち、生きておられる方です。神が生きておられるとは、神は、知り、感じ、意志し、行動したもうという、知・情・意の人格的性質を備えておられることを表しています。それゆえ、神は私達の祈りを聞き、幸いな人生に導きなさることが出来るのです。また御旨にかなった歩みを喜び、祝福なさることが出来るのです。

 神は生きています。人間が造った神は偶像と言います。偶像は人が造ったものですから何もすることができません。祈っても祈りを聞くことかできないのです。エレミヤは偶像について、きゅうり畑の案山子のようで、ものを言うことができない、歩くこともできないから人に運んでもらわなければならない、と言いました。しかし神は永遠から永遠まで存在し、そして生きている神であるのです。

神 は生きていますから、見ることができます。聞くことができます。そしていろいろなことを考え、思い、そして意思決定し、実行なさるお方です。

 聖書の記事から神の人格性を考えてみましょう。

 「主はその御目をもって、あまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力をあらわしてくださるのです。」(歴代誌第二16:9)

 紀元前10世紀、イスラエルの国は、南北王朝に別れていました。北王朝(イスラエル)の王はバシャ、南王朝(ユダ)の王はアサでした。アサは神に信頼する正しい政治を行った王でしたが、その治世に一回だけ失敗がありました。北王朝イスラエルが南王朝ユダに向かって攻めてきました。その時にアサは神に信頼し、考え深い行動をとるべきでした。しかし南北王朝共通の脅威であったアラム(シリア)の王に金銀の貢物を納め、「同盟を結びましょう」と交渉しました。アラムの王が北王朝を攻めてきたので、北王朝の王バシャは兵を引き上げなければなりませんでした。アサは目先の安全のために卑劣な方法をとりましたが、このことは後々禍根を残すことになります。神に仕える預言者ハナニが神の言葉として、アサを譴責した言葉が上記の言葉です。

 神は御目を持って、全地を見渡している。すべての人々の神は行動だけでなく、心の中までご覧になっていらっしゃる。そして心の正しい人々に神は力を現してくださると約束されています。神は目に見えませんが、生ける神です。今も神は私達の心と生活を御覧になっています。

 エジプトでイスラエルの民が奴隷の苦しみの中にあった時、彼らは神に向かって叫びました。聖書(出エジプト記2:24.25)には、「 神は彼らの嘆きを聞かれ、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こされた。神はイスラエル人をご覧になった。神はみこころを留められた。」と記されています。神は人々の苦しい状態をご覧になり、祈りを聞き、約束を思い起こし、心にとめられました。そしてモーセを選んで、民をエジプトの奴隷に苦しみから救い出されました。

 これらの記事の中に、神が知り、心を痛めるという感情をお持ちのこと、そして意思決定するという人格性が現れています。神は、人々の苦しみをご覧になり、共に苦しまれ、また祈りに答えて助けることが出来なさる方です。また聖書は、神を愛する人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることと約束されています。苦しみ、悩み、試練されも神は益に変えてくださるのです。

 神は目に見えないからいないのではなく、確かに存在されます。そして人格を持って、今も生きておられる方です。

【公式】西調布キリスト教会

この教会は、メソジスト系の聖書信仰に基づくプロテスタントの教会です。 聖書から、神の愛のメッセージが語られています。 東京都調布市上石原2-26-13( 京王線西調布駅より徒歩3分) ☎042-485-1351

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