今回は神の自然的属性に付いて話したいと思います。属性とは、本質ではないけれども、あるものがあるものであるゆえに派生する性質を属性と言います。神の属性とは、神が神であることから派生してくる性質を意味しています。神の属性には自然的属性と道徳的属性がありますが、今日は自然的属性について取り上げて学びます。
神様の自然的属性について、無限と言う言葉で表すことが出来ます。私達人間は有限です。有限な人間にとって、無限を理解することは困難です。天文学的に数字を表す時に、0が幾つも続く数値を表す時に、A×10のX乗という式で表します。さらには、距離を何光年と言う数字で表します。天文学的数字は私達には途方もない数字で、理解を超えていますが、それでも有限な数です。しかし神が無限と言う時に、数に制限されない、天文学的数字さえも越えて、人間の数字では表すことが出来ません。
Ⅰ 全能の神=何でも出来る神
神は何もないところから、世界を作られました。神は天を造り、そこにある星々を作られ、地を造り、そこにある植物、魚と鳥、そして動物と人間などあらゆる生き物を造られました。そして全ての自然を保ち、守っていらっしゃいます。神は秩序を持って、今日も自然を支配していらっしゃいます。その神には何でもできないことはありません。私達人間の能力には限りがありますが、神は全能の神ですから、神は全てのことをなすことが出来ます。何事でも、神にとって困難すぎることはありません。
ヨブ記42:2には、「あなたには、すべてができること、あなたは、どんな計画も成し遂げられることを、私は知りました。」と記されています。
神の無限を能力であらわしたときに、神は全能の神と言うことが出来ます。神は全能の神ですから、神は全てのことをなすことが出来ます。何事でも、神にとって困難すぎることはありません。
ある人は聖書の中に奇跡がなかったなら、聖書は読みやすいといいました。けれども聖書の中に奇跡が記されていることは、大切なのです。神は全能の神で、イエス様によって、その力を現されました。私達が困難に直面し、人の力では乗り越えることが出来ないと思われることがあります。その時も、全能の神に信頼し、その方に祈りをささげて、困難を乗り越えることが出来ます。
神の全能のカの行使は、神ご自身の賢明な知恵、聖なる愛の意志によって制限されます。神は全能ですからどんなことでもすることが出来ますが、その無限の知恵と愛と聖が命令することだけを行われます。神は全能ですが、自然の秩序を乱されることはなさいません。神は全能ですが、汚れたことはなさいません。神は愛に背くことはなさらないのです。神に私に対してなさることは常によきことです。
Ⅱ 永遠の神=永遠の存在される神
「山々が生まれる前から、あなたが地と世界を生み出す前から、まことに、とこしえからとこしえまであなたは神です。」(詩篇90:2)
神の無限性を時であらわしたとき、神は永遠と言えます。神はとこしえからとこしえまで神、すなわち、永遠の御方です。その存在は、始めがなく、終わりがありません。過去にいまし、現在にいまし、永遠の未来においても常に存在なさる方です。
神の永遠はいつまでも存在されると共に、いつまでも変わることがないことを意味しています。神の目的、態度、及び性質はいつまでも変あることがありません。主イエスはこの地上で神の愛を現しましたが、神の愛は、いまも変わることがありません。
エレミヤ31:3に「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。」と記されています。昔、神は民を愛すると約束されました。あなたを愛すると言った神は、いつまでも変わることがない永遠の愛を持って、今の時代に生きる私達を愛していらっしゃるのです。
そのことの故に、私達は安心して、神に信頼し、私達の人生を神に委ねる事が出来ます。その信頼は決して裏切られることがありません。
Ⅲ 全知の神=なんでも知っている神
神の無限性を知識で表現した場合、神は全知の神といえます。神はすべてのことを知られ、宇宙のはしから端まで、マクロの世界について全ての知識をもち、また最も小さなミクロの世界まで、全ての事を知っています。そしてわたしたち一人一人に着いて、神は全てのことを知っていらっしゃるのです。
詩篇139:1-6には、神が人に関する全てのことを知っていることが記されています。
神は霊ですから、神の姿を見ることが出来ません。しかし神は人格を持っていて、私達の生活を見ることが出来、また祈りを聞きなさる方です。
139:1「 主よ。あなたは私を探り、私を知っておられます。」
探りという言葉には、調べてみると、「探す、調べる、探し出す、研究する、徹底的に調べる」という意味があります。神は一人一人がどんな人間か、徹底的に調べて、その人のすべてを知っておられるのです。
139:2 「あなたこそは私のすわるのも、立つのも知っておられ、私の思いを遠くから読み取られます。」
2節に、私の座るのも、立つのも、3節に、私の歩みと私の伏すのを、そして前から後から、と二つの両極端が、並べて書いてあります。これは二つの極、こちら側のはしと反対側の端を表現することによって、その中間を含め、全てということを意味しています。
神が座るのも、立つのも知っておられる。座るということは、休息、活動していない状態です。立つとは、活動している状態です。一日の生活で、座るということと、たつということは、その日の生活の両極端です。ということは、神様が私達の生活のすべてを知っておられるということです。そしてそれは、行動として現れている部分だけでなく、行動として現れない、思いまで、神は知っておられます。
139:3 「あなたは私の歩みと私の伏すのを見守り、私の道をことごとく知っておられます。」
私の歩み、私の伏す。歩みは進むことですし、伏すはとどまることですから、人生経験の両極端を表現し、その中間も含め、人生の全ての出来事を神様は見て、ご存知であるこということです。これは私の道をことごとく知っておられますと続きますので、私の人生経験を意味しています。私の人生の全てを神は知っています。神は全て知り、そして一人一人の人生は神に記録されているのです。
139:4 「ことばが私の舌にのぼる前に、なんと主よ、あなたはそれをことごとく知っておられます。」
私の舌に一言もないのに、と記されていますが、口から出る言葉は心から出てきます。下に一言もないのにと言うことは言葉や行動の源泉である心、を意味しています。心とは、その人がどんな人間かを意味しています。心にあることは人には、見えません。しかし神は、心の中までも全て調べて、ご存知です。そしてこのことは、あなたはどんな人間か、神は心を調べて知っているということです。
139:5 「あなたは前からうしろから私を取り囲み、御手を私の上に置かれました。」
前から、後からということも横も斜めも全部の方向を含め、あらゆる角度から神は私を取り囲んで知っていらっしゃることです。人は表と裏を使い分け目ことがありますが、神の前に裏も表もありません。神は人が見ていないところでしていること、そして人の目に隠れている、こともご存知です。
Ⅳ 遍在の神=どこにでもいる神
詩篇139:7-12には、神の遍在が記されています。
人間は場所と時間に制限されて生きていますが、神は無限のお方で、場所にも、制限されません。神の無限性を場所に関して表現した場合、遍在の神ということが出来ます。遍在は遍く在ると書きます。神はどこにでもいらっしゃいます。
139:7 「私はあなたの御霊から離れて、どこへ行けましょう。私はあなたの御前を離れて、どこへのがれましょう。」
みたまとは神様の霊です。ですから、「あなたのみたまを離れましょうか」も「あなたのみ前をのがれましょうか。」も同じ意味です。どこに行ってもそこに神は臨在してくださいます。
139:8 「たとい、私が天に上っても、そこにあなたはおられ、私がよみに床を設けても、そこにあなたはおられます。」
天に上っても、天高く上っても、よみとは、地面の下をさす言葉ですここでも二つの極端な言葉を並べることによって、どこに行っても神はそこに臨在されます。
1962年、ソ連がポストーク三号を打ち上げました。このとき、宇宙飛行士ガガーリンは、初めて人工衛星に乗って、宇宙に行きました。彼は人工衛星から地球を見て、「地球は青かった」という、有名な言葉を残しました。彼はまた、「そこにも神はいなかった」と言いました。後に、フェース七号とジェミニ五号に乗って宇宙に行ったアメリカの飛行士ゴードン・クーパーは、「たしかに、神をこの目で見ることはなかったか、しかし、神がそのみ手で創造された不思議なわざを、しつかりと見た、」と手記に書いています。神は霊ですから目には見えませんが、宇宙に飛び立っても、そこに臨在してくださる。神の御手に守られて、多くの人々の祈りに支えられて宇宙旅行をすることが出来たのではないでしょうか。神は天にも、地面の下にも、そして地球のどこに言ってもそこに臨在してくださるのです。
139:9 ?10「私が暁の翼をかって、海の果てに住んでも、そこでも、あなたの御手が私を導き、あなたの右の手が私を捕えます。」
イスラエルの地図を頭の中に浮かべていただきたいのですが、曙は日の出のことです。太陽は東から昇ります。海とは、地中海です。地中海は西にあります。東の山の上に朝早く太陽が昇ります。そのとき、太陽の光は瞬く間に、西の海の外れまで、とどきます。そのような光の速さに乗って、遠くへ行っても、そこに神様が臨在される、ということです。どこにいっても、そこに神様が一緒にいてくださり、守り、支えてくださるのです。
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