神について、神の本質、そして神の自然的属性として、全能、永遠、全知、遍在と言うことを話しました。今日は、道徳的属性に付いて話させていただきます。属性とは、神が神であることから派生してくる性質ですが、道徳的属性としては、聖、愛、義、憐れみ、真実があります。
Ⅰ 聖なる神
「イスラエル人の全会衆に告げて言え。あなたがたの神、主であるわたしが聖であるから、あなたがたも聖なる者とならなければならない。」 レビ記19:2
聖書に記されている神は聖なる神です。神と聖とは切り離して考える事が出来ません。聖書の神様は汚れがいっさい存在しない絶対的な聖なる方、又至高な愛の方であります。
聖は神の本質の姿であり、神の全ての属性は神の聖から派生しています。神は何でもする事が出来ます。しかし神の全能の御力は聖に支配され、神は気ままな行動、あるいは勝手なふるまいはなさいません。神の聖は、道徳的・倫理的完全であり、威厳があります。それゆえ神に対するふさわしい人間の応答は、畏敬・崇拝・恐れ・そして罪責であります。
聖なる神が人間に対して、神の前にきよい心を持ち、きよく生きることを求めています。
Ⅱ、神の愛
聖書に「神は愛だからです。」(第一ヨハネ4:8)と書いてあります。God is love. 神イコール愛です。このことをある人は次のように説明しました。
「人から愛をのぞいたら、けだものになる。神から愛をのぞいたら、何も残らない。神は愛そのものです。 「愛」とは、愛する者の福祉を願い、且つそれを喜ぶことです。」
「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネの福音書3:16)
神は愛です。ここに、世を愛されたとありますが、世は、ギリシャ語のコスモスで、この言葉は宇宙、世界、世といった幅広い意味があります。ここでは、「世」とは、世界中に全ての人々を指しています。神は世界中の全ての人々を愛され、真の祝福を与えようとしていらっしゃいます。その神の愛からもれる人はひとりもありません。ですから愛の対象の中に、あなたも含まれているのです。世という言葉の中に、自分の名前を入れて読むことが出来ます。神は○○を愛された。素敵なことではないでしょうか。
神が愛されたと言う時、全ての人ですが、それは大衆を対照とした愛でなく、一人一人をかけがいのない存在として、個人的な愛をもって愛する愛です。もし物質でしたら、分けたら少なくなります。しかし神の愛は物質ではありません。どんなに愛を受ける人々の数が増えても、少なくなりません。イザヤ書には、神は手のひらにあなたの名を刻んで覚えていると言う言葉がありますが、いつも私達を目の前において、神の全てを持って愛しているのです。
Ⅲ 義なる神
「主は、その町の中にあって正しく、不正を行なわない。朝ごとに、ご自分の公義を残らず明るみに示す。」ゼパニヤ書3:5
神の道徳的属性は聖です。聖は神の本質の姿です。神の義はその性質に従った神の活動基準です。神の活動は常に正しく、誤りがなく、不正を行われません。義なる神は正しい事を喜び、正しいものに報いを与えられます。一方、罪を憎まれます。そして罪に対しては正しいさばきを行われる方です。
神の義から刑罰を想起しますが、神の義は正しく歩むものにとって、確信の根拠です。神は正しく歩むものを知ってくださり、神は守り、報いてくださいます。神への信頼は決してむなしくなる事がありません。それゆえ神の義は神に信頼して歩むものにとって、確信ある人生の根拠となります。
義なる神の前に、人は罪がないと主張することは出来ません。けれども神は人類の罪の贖いとして、神の御子イエス・キリストを十字架につけられました。キリストの十字架の功しによって、神は信じる者の罪を赦して、義と認めてくださいます。このことにより、神は神の義をあらわしてくださいました。
Ⅳ、神のあわれみ
詩篇103:8には、「 主は、あわれみ深く、情け深い。怒るのにおそく、恵み豊かである。」と記されています。
ギリシャ語のあわれみは、同情という意味をもっています。これは同じ心を持つと言うことです。私が苦しむ時に、悲しむ時、辛くて涙を流す時、神は私達を愛され、そして私達の苦しみを神の苦しみとし、悲しむ時、私達の悲しみを神の悲しみとして下さるのです。そのことは皆様方が、優しくと、お子様を大切にしていますから、よく判ると思います。お子様が悲しんでいる時に、お子様以上に悲しみ、心を痛めているのはお母さんではないでしょうか。同情と言うのは、お気の毒様というのではなく、隣人の苦しみ、悲しみを自分のものとして、共に苦しみ、悲しむことなのです。
ヘブル語のあわれみは、いつくしみ深いと同一の用語です。神があわれみ深いとは、「いつくしみ」とか「親切」という意味を含み、ことに苦しめる者、罪のために悩む人に向かって行使されるところの親切、又はいつくしみを意味しています。
私達は弱く、失敗の多いものです。振り返ると、子どもの失敗に、随分叱ったことがありました。今、子育てに間違いがあったと反省しています。神の私達を御覧になる目は、いつも慈しみです。弱く、失敗の多い私達ですが、神は慈しみの目を持ってみてくださり、私達の成長を待ち、そして成長を助けて下さるのです。
Ⅴ、神の真実
申命記32:4 に、「主は岩。主のみわざは完全。まことに、主の道はみな正しい。主は真実の神で、偽りがなく、正しい方、直ぐな方である。」と記されています。
「真実」とは、信頼に足りる、寄りかかっても大丈夫と言う意味があります。神は真実な方であり、偽りも、回転の影もありません。安心して神に委ねきり、神の助けを頂くことが出来ます。「主は真実の神」です。神は真実である故、偽りがなく、正しい方、直ぐな方でいらっしゃいます。「主は岩」とありますが、岩とは、変わらない、動かないものの代表です。ですから、主が岩とは、堅固不動のお方、信頼に足るお方と言うことです。
神の真実はイスエラル人に対してだけでなく、私たちに対していつも真実なのです。
神の真実は愛と共に働きます。それ故、神は神に信頼する人に対して、良いこと以外の何事もなさいません。神のなさることは常に善、あなたにとって最善なのです。
神の真実を信じ切って、神に信頼する人はなんと幸いでしょう。人生には、苦しい経験の中を通る事があります。神が愛ならば、何故こんなに苦しまなければならないのかと思うことがあるかもしれません。しかし私達には分からなくても、ただ一つだけ分かることがあります。それは、神は真実で、神の真実は決して変わることがないと言うことです。そして神は苦しみさえ益に変えてくださるのです。
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