第六課 「人生の価値」

前回まで、神についていろいろな方面から語らせていただきましたが、今回から「人について」聖書からご一緒に考え、そしてこの一度しかない人生を豊かな人生として送らせていただきたいと考えています。

 神の恵と深い計画によって、私達はこの地上に生を受けました。その後、成長し、いろいろな仕事を成し遂げ、やがて老化し、死んでいく人生ですが、ただ生きていくのでなく、与えられた人生をより豊かにすごして生きたい、これは意識して考えているか、或は考えていないかは別として、潜在的に人の心の中にあるものではないでしょうか。

 昔のことですが、太平洋戦争が終戦した後、「いのち売ります」と言う看板をぶら下げて、街頭に立っていた青年のことが話題になったことがありました。この人にとって、いのちとはなんだったのか、そして自分のいのちの価値をどう値積もっているのか。考えさせられる事件でした。

 人とは何なのでしょうか。人の価値はどこにあるのでしょうか。人の価値はその人の収入の額で判断されるのだろうか。社会的地位だろうか。教養だろうか。或は能力だろうか。その人の気質だろうか。そして、もしそれらが私の備わっていないならば、私は価値がない人間なのだろうか。豊かな人生を生きるために、価値のある生き方をしたい、人間にとって、価値とは何なのだろうか。皆様は考えたことがありませんか。


Ⅰ 人の価値について

 昔から世界に階級制度のようなものがあります。

 奈良、平安時代は荘園制度がありました。貴族達が、広い荘園を持っていて、そこに農奴を働かせ、収入を得ています。貴族は、音曲・歌舞・文学を楽しみ、高い教養を身につけています。しかし彼らの奢侈な生活を支えているのは、彼らの勤労ではなく、農奴たちの汗水流す働きと、貧困の上に立ったものでした。農奴たちの勤労に支えられて豊かな生活が出来ているのに、貴族は農奴を人間扱いしないで、上から見下げています。階級によって人の価値を決めて、身分の低い人は、階級の高い人に肩を並べることが出来ません。

 江戸時代に士農工商、と言う制度が定められています。武士が偉いのでしょうか。商人は身分が低いのでしょうか。そうではなく、人としてみんな神の前に平等なのではないでしょうか。それが民主主義に生きる私たちの考えです。

 それでは、民主主義といわれている、現代はどうなのでしょう。確かに階級制度はないかもしれませんが、自由と平等と言いながら、心の中でひそかに、人の学歴、地位、富、その他、さまざまの能力によって、人の価値に差をつけてみていると言う傾向があります。

 立場や地位を否定するのではありません。会社では社長や、部長は重要なポストについています。彼らには、責任と権限が与えられています。そのために、部下は上役を尊重し、そしてその命令、指示に従わなければなりません。政治家で最高の権限を持っているのは総理大臣でしょう。総理大臣と言う責任を負って、国の内外の問題に対処しなければなりませんし、その責任を果たすために、生命、健康を守るためにあらゆる配慮がなされなければなりません。そして総理大臣としての大きな権限が与えられ、国民はそれを認め、敬い、国民として協力することが必要です。しかしそれは職務を遂行するための立場の違いであって、人間の価値ということとは別な問題です。

 政治の世界では総理大臣になりたいと言う野望をいだいている政治家はたくさんいます。

またサラリーマンでは、少しでも高い地位を求める人が多くいます。そしてポストを得ると傲慢になる人がいます。また人は財産や地位によって人の優劣を判定する傾向があります。高い地位に着いたり、富を得ることによって、その人の価値が高くなっていくのでしょうか。そして、もしそれらが私の備わっていないならば、私は価値がない人間なのでしょうか。

 人が神の前に優れた人で、価値があるかないか判断するのは、人の富や地位や階級とは別なところにあります。

 「人はみな草のようで、その栄えは草の花のようだ。草はしおれ、花はちる。」

 この御言葉を皆様はどう読まれるでしょうか。

 人は草だ、確かに人生は短く、あっという間に過ぎていく、そして草花のように、美しい時期がありますが、しおれ、かれていく。人生の短さ、はかなさを言い表していると思います。

この御言葉に似ている言葉が、ヤコブ1:10-11にあります。「富んでいる人は、草の花のように過ぎ去っていく。・・・」

たしかに日本人の考えの中にも、平家物語にありますに用に、生者必衰の断りを表す、どんなに栄えて、おごっていても、そのおごりは長続きしません。それだけでなく、どんなに富んでいても、死は誰にもやってくるのですから、死と共に富のある人生も、高い階級に生きた人生も、むなしく終わっていきます。

 もし、富、地位、階級、才能、美貌などに人の価値を置くとしますなら、その価値はむなしく消えていきます。

 それでは、私達はそのむなしいものを求めて人生を生きているのでしょうか。

 人生は草花のように、はかないものなのでしょうか。人生とはそんなにむなしいものなのでしょうか。

 人生は、はかないと言うことでなく、神様がこの地上にあなたを誕生させてくださり、生を与えられ、今日まで守ってくださいました。この与えられている生を価値あるものとして、どうしたら豊かに生きることが出来るのでしょうか。


Ⅱ 神にある人の価値

 イエス様があるとき、宮の献金箱の前に座っていました。そのとき、金持ちがたくさん献金箱にお金を入れました。そのあとで、貧しいやもめがレプタ2枚を賽銭箱に入れました。人々は金持ちの献金を見て、「彼は何と多くの献金をささげたのか」と感心しました。しかしイエスさまは「この貧しいやもめは、献金箱に投げ入れたどの人よりもたくさん投げ入れました。」といいました。レプタはその当時の貨幣の最低の単位です。

 イエス様がご覧になる価値と、人々の水準で見た価値はちがっていました。

 もう一つの例をお話しましょう。弟子たちがあるとき、イエス様に、「天の御国でだれが一番偉いのでしょう。」と質問しました。そのとき、イエス様は小さい子どもを呼び寄せ、彼らの真ん中に立たせ、「この子どものように、自分を低くするものが天の御国で一番偉い人です。」と言われました。その時代の大祭司でなく、また弟子のペテロやヨハネでなく、謙遜に、素直にイエス様を信じ従う人が偉いといわれたのです。

 もし、富、地位、階級、才能、美貌などに人の価値を置くとしますなら、その価値はむなしく消えていきます。神様が私たちに命を与え、守ってこられたのは、むなしく消えていくものを追い求め、むなしい人生を生きるためでなく、永遠の幸いを与えるためでした。

 聖書のほかの個所から、神にある人の価値を考えたいと思います。

 人がどんなに神に愛され、尊い存在なのか、神が人を創造された物語が示しています。神は人を神のかたちに創造されました。神とのかたちと言う中には、人が神と交わる霊的ないのちが含まれていますし、神の道徳的なかたちである、聖、愛、正義、哀れみ、真実などに似せて造られたことを意味しているのです。

 ほかの動物にはない輝きをもつものとして、神は人を創造しました。

 詩篇8:4-5に次のような言葉があります。篇をご覧下さい。

 「人とは、何者なのでしょう。あなたがこれを心に留められるとは。人の子とは、何者なのでしょう。あなたがこれを顧みられるとは。あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし、これに栄光と誉れの冠をかぶらせました。」

神はこのように人を創造され、そして人は神とひとしくありませんが、人に栄光と誉れの冠をかぶられました。人とはこのようなものなのです。もし神を離れ、地位、階級、富、誹謗、能力などに人生の価値をおいてそれを求めていくなら、人生はむなしく過ぎていくでしょう。しかし神に愛され、神との交わりの中で、神と関係を持って生きていくとき、人は神との関係の中に本当の価値を知ることができるのです。

 神が神のかたちら創造され、神様から愛されているあなたがそこにいます。そのようなあなたは神の前に、神にとってかけがえのない存在です。そこに一人一人が持っている価値があるのです。

 豊かな財産がないかもしれない。社会的地位もないかも知れない。大きな業績を残していないかもしれない。学歴がないかもしれない。だからその人はだめなのではありません。

 生まれたときから、傷害を持った人がいます。或は事故や、病のために後天的に、傷害を持った人もいます。或は病で床についたまま生きている人もいます。その中の多くの人は仕事をしたり、能力を伸ばすと言うことが出来ない場合があります。そして人を助けるのでなく、いつも人の世話になって生きている人々がいます。能力があって活躍している人々と、それが出来ない人との間に、神の前に価値に差はないのです。なぜなら、本当の人の価値は、その人の存在としての「かけがえのなさ」であるからです。「かけがえのなさ」。世界中にあなたと言う存在は一人しかいません。だれもあなたに代わることが出来ないのです。

 私は地位も、富も、才能も、業績もありません。では私はいないほうがよいのでしょうか。神にとって決してそうではありません。神はあなたを必要としているのです。それはあなたが何かできるかではなく、神の愛の対象としてあなたを必要としているのです。繰り返しますが、神に愛され、神と共に生きるあなたがそこにいる、そこにあなたの価値があるのです。

 このように、人が神を知り、神の近付き、神と共に生きる。そこに豊かな人生があります。


Ⅲ 価値のある豊かな人生に生きる

 私は64歳の時に、椎間板ヘルニアにかかり、坐骨神経痛を患いました。痛みのためにたつことも出来ず、横になっても絶えず痛みが腰から足のつま先まで走っていました。痛みのために何もできないという申し訳なさ感じました。けれども仕事から立ち止まって、いろいろ考える時間が与えられ、この間は本当にすばらしい、神様からの時間の贈り物でした。その中で私が感じたことは、神の慈しみと愛でした。神が私と共にいてくださる。そしてこんなに小さなものも愛して、神との交わりの中におらせてくださる。からだは痛みのために、体をひねるようにして、痛みをこらえていますが、心は喜びと感謝でいっぱいでした。そして私の体は朽ちるからだです。やがて死を迎えるときが来るでしょう。しかし臨終に望む時、主イエスは共にいてくださり、死の川を渡らせてくださる、その時、今のような喜びの中に死を迎え、そして天の御国に挙げられていくのだと思いました。

 「人はみな草のようで、そのさかえは確かにくさの用かもしれません。」しかし、人生はむなしく終わるのでなく、神との関係の中に、本当の価値があり、それを見出して豊かな人生を過ごすことが出来るのです。私達は人生の価値を見出し、神と共に生きる中に喜びを見出し、豊かな人生を過ごすことが出きりのです。

イザヤ43:1-に「 だが、今、ヤコブよ。あなたを造り出した方、主はこう仰せられる。イスラエルよ。あなたを形造った方、主はこう仰せられる。『恐れるな。わたしがあなたを贖ったのだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの。』」と記されています。

 天地万物を創造された神は、人を神のかたちに造られました。そして神は人の上に豊かな愛を注がれました。人は神から離れていますが、愛の神はイエス・キリストの十字架の贖いのゆえに赦し、そして神との和解を与えてくださいます。「わたしがあなたを贖ったのだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの。」とおっしゃっています。

 人は草の用かもしれません。その栄えは野の花の用かもしれません。しかし生まれてはかれていく。むなしさの中に生きているのでなく。神との関係の中に永遠の価値を見出し、そして豊かな人生の中に生かされているのです。

【公式】西調布キリスト教会

この教会は、メソジスト系の聖書信仰に基づくプロテスタントの教会です。 聖書から、神の愛のメッセージが語られています。 東京都調布市上石原2-26-13( 京王線西調布駅より徒歩3分) ☎042-485-1351

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