説教者 新澤昭彦師
聖書箇所 ヨハネの黙示録4:-5:(5:9-14)
黙示録は三つに区分されます。
1:には、ヨハネが見た事、2:-3:には現在の事、4:-22:には、これから起こる事です。
4:-22:では、大部分が将来の事で、そこには患難時代、千年王国、神の都の黙示が預言されています。
4:-5:では、天の御座とそこでの礼拝が記されています。
Ⅰ 天の御座
ヨハネは、開かれた門が天にあるのを見ました。
そして、「ここに上れ。この後必ず起こる事を、あなたに示そう。」と声を聞きました(4:1)。
そして、彼は、天にある御座と、御座についておられる方を見ました(4:2)。
2節に「達まち私は御霊に捕らえられた。」と記されています。
ギリシャ語を直訳すると「達まち、霊によって」という言葉です。
ヨハネは霊が肉体を離れて、天に上げられ、御座と、御座に座している父なる神を見ました。肉体の命と霊的命は、別々になる事はありません。ただ肉体が死亡します時、霊は肉体を離れ天の神のもとに帰ります。人が生きている時に、霊が肉体を離れてという事は考えられません。
けれども第二コリント12:2に、「この人は十四年前に、第三の天にまで引き上げられました。
・・・肉体を離れてであったのか、それも知りません。神がご存じです。」と書いてあります。
これはパウロの経験と思われますが、おそらく、ヨハネも霊が第三の天に上り、天の門から入り、天の御座の光景を見たのだと思います。
ヨハネがまず目にしたのは、天にある御座と、その御座に着いている方、父なる神様でした。
彼は父なる神の栄光の輝きを見ました。神の周りには栄光の輝きが包んでいて、それは言葉に尽くせない美しい栄光の輝きでした。天の御座とそこに座していらっしゃる神の輝き、栄光、美しさは人の言葉で表現する事が出来ません。彼は碧玉、赤メノウ、エメラルドのように見える虹と、自分が知っている宝石をもって、その素晴らしさを表現しました。
「また、御座の周りには二十四の座があった。これらの座には、白い衣をま とい、頭に金の冠をかぶった二十四人の長老達が座ってい」ました(4:4)。彼等は、頭に金の冠をかぶり、白い衣を着ていました。白い衣は、きよい品性を表しています。敬虔で、清さが、品性として外に現れていました。 6 -7には4つの生き物が記されています。
第一の生き物は獅子のようであり、第二の生き物は雄牛のようであり、第三の生き物は人間のような顔を持ち、第四の生き物は飛んでいる鷲のようでした。4つの生き物は、神の御座の周りで、神に仕える天使の頭ケルビムで、第一は獅子のような.権威と力を持ち、第二は牛のような忍耐と力を持ち、第3は、知恵と深慮を持ち、第4は、大空を舞う鷲のような気高さを持っているみ使いと思います。
Ⅱ 御座の前での礼拝
9-10節に、御座に着いておられる方の前にひれ伏して、4つの生き物と、10節では、24人の長老達が礼拝をささげています。
彼等は、「主よ、私達の神よ。あなたこそ栄光と誉れと力を受けるにふさわしい方。
あなたが万物を創造されました。
みこころのゆえに、それらは存在し、また創造されたのです。」と父なる神を讃美し、礼拝しました。 神は、万物を創造された方です。かつて、何も存在しない無の世界がありました。
そこに、神は星々を造り、太陽を造り、地球を造り、海と陸を造られ、そこに住む、植物、魚、鳥、動物、昆虫、そして人間を創造されました。神様が全てのものと創造された時、聖書には「神はご自分が造ったすべてのものを見られた。見よ、それは非常に良かった。」を書いてあります。
自然に親しみ、山を歩く時、そこから見る景色は美しく、ある時は涙を流すほど感動します。
野に咲く花、庭に咲く花はなんと美しいでしょう。
人間の体の中に、様々な細菌に対する抗体が出来て、病気に打ち勝つ装置が生まれてきます。
そのような体を創造して下さったのは神様です。
私達が分からない不思議な仕組みが体にはあります。
マクロの世界から、ミクロの世界まで、もし神様の創造の御業を調べたなら、神の深い知恵と力を知るでしょう。神の前にひれ伏して神を礼拝し、神を讃美せずにはいられません。
Ⅲ 小羊の前での礼拝
8-14節では、四つの生き物と二十四人の長老達、そして、万の数万倍、千の数千倍のみ使い達がこの礼拝に加わり、美しい声、美しいハーモニーを持って、小羊なるイエス様を讃美しています。
そこに、屠られた姿で子羊が立っていました。それは十字架にかかられたイエス様の姿です。
四つの生き物と二十四人の長老達は子羊なるイエス様を礼拝し、「あなたは屠られて、すべての部族、言語、民族、国民の中から、あなたの血によって人々を神のために贖い、私達の神のために、彼らを王国とし、祭司とされました。」と讃美しました。
天の礼拝で讃美されているのは、イエス様の十字架による贖いでした。聖書の中で一貫して語られている事は、イエス様の十字架による贖いです。
神が、世界にあるすべてのものを造られた時、それは、非常に良かったのです。神が造られた最初の人は、非常に良く、幸福でした。それはきよい心を持ち、神との交わりがあったからです。しかし人は神の禁じた事を犯し、罪を犯しました。罪は神と人を裂き、人から幸福を奪いました。
イエス様は、「心の清い者は幸いです。」と言われました。本当の幸いはきよい心を持ち、神と共に生きる事にあります。しかし人は罪深く、自分を清くする事は出来ません。人生の最大の問題は神に罪を赦していただき、心がきよめられる事です。それは人の力でするのではなく、キリストの十字架の贖いによって、実現します。
神は人が神と共に生き、幸いになる事を願っています。私達は、かつては神の前に罪人でした。しかしキリストは人類のために、十字架にかかり、罪の贖いを完成して下さいました。十字架の贖いによって、神は私達を赦して下さり、心をきよめて下さいます。そして神と共に生きる者として下さいます。天の御座の前での讃美は、十字架の贖いを歌う讃美でした。私達もやがて天の礼拝に加わり、み使いと共に讃美します。その時、十字架にかかり贖いを成し遂げて下さった。キリストを讃美することでしょう。
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