説教者 新澤昭彦師
聖書箇所 ヨハネの黙示録 3:1-6
Ⅰ 生きている事について
1節の「あなたは、生きているとは名ばかりで」という言葉の「生きている」という言葉は、ギリシャ語のゾーエーです。ゾ-エーは人生の目的、価値を見出し、喜びと平安と確信の中に生き生きと人生を過ごす内的命です。
人は母から生まれた時、肉体的命を持ちました。その時から人生が始まりますが、ゾーエーは霊的命です。霊は、神との交わりを持ち、きよさ・愛を宿す人格の中心です。霊的命は神との交わりを可能にします。また永遠の生命です。人は老いと死を避ける事ができません。たとえ体が死を迎え、墓に葬られても、霊的生命によって体を離れて、天国に帰ります。さらに霊的命は、その人の人生を愛と、清さに導きます。
人は母親から生まれ、肉体の命を持ちました。しかし生まれながらの人は、霊的生命を持っていません。そのために、神が分かりません。神との交わりも、天国の希望も、そして私の心が変わる事もありません。
主イエスは「人は、新しく生まれなければ、神の国を見る事はできません。」と言われました。
新しく生まれるとは、霊的な誕生をする事です。
人はどうしたら新しく生まれる事が出来るのでしょうか。ロマ書に、「罪の支払う報酬は死です。」と記されています。人々から霊的生命を奪い去る原因は罪です。もし罪があったなら、霊的生命を失います。主イエスは神ですが、人となって世界に来て下さいました。
主イエスは全人類の救い主です。
主は人類の罪を赦す為に十字架にかかって下さり、罪の代価を払って下さいました。
罪を悔改めて、十字架にかかられ、復活なさつた主イエスを信じるならば、神は私達の罪を赦し、霊的生命を与えて下さいます。
Ⅱ 霊的命に死をもたらすもの
主イエスを信じた人々は新生し、霊的命を持っています。
しかし霊的命は維持され、養わなければなりません。そのために心の糧として聖書を読む事、祈り神と交わる事、礼拝に出席する事、奉仕をする事、等が必要です。もしこれらの事を怠っていくならば、霊的な命は養われません。信仰に成長しません。そればかりか、霊的命が失われる事があるのです。主イエスは魂を養い、豊かにする隠されたマナです。主との交わりがないなら、魂は枯渇します。そして霊的死に向かいます。
「あなたは、生きているとは名ばかりで、実は死んでいる」。
サルデスにある教会では、どうしてこのような事になってしまったのでしょうか。
おそらく、世俗化と、油断という事がありました。
サルデスは、昔、ルデア地方の首府でした。高原地帯にあり、難攻不落の要塞地でした。
傍に流れている川では、砂金が取れたそうです。織物産業が盛んな豊かな町でした。
安全だ、そして暮らしは豊かだ、その中で世俗化と油断が進み、心がいつの間にか神から離れていきました。外面はクリスチャンのように生きているかもしれませんが、霊的命を失っていました。
2章に記されている教会を見ますと、それぞれの教会は、苦難、迫害、そして誤った教えに対する戦いに直面していました。
しかし、サルデスの教会には、苦難、迫害、異端との戦いは書いてありません。
彼等は守られ、豊かで、安全でした。
しかしその豊かさの中に、危険がありました。
豊かで安全な事は望ましい事です。
しかしその豊かさの中に、いつの間にか、心が神様から離れ、世俗化し、そして大切な霊的命を失っていました。
苦しみに会う事は喜ばしい事ではありません。
しかししばしば苦しみは私達の心を神に向け、必死になって祈る機会を与えてくれます。
豊かで、何事もない低温な暮らしの中で、いつの間にか、主を見上げていたのでなく、世のものを見つめ、世のものに心が向かっていく危険があります。
今の時代は、豊かな事、楽しい事、感情を満足させる事、また快楽が沢山あります。
それらに心が向かっていく時、心の目が神から離れ、霊的命を失う事があります。
世の中にも魅力的なものがあるかもしれません。
しかし世俗化して、心が神から離れ、魂が死に向かって行くという危険があります。
2節に「 目を覚まし、死にかけている残りの者たちを力づけなさい。」と勧められています。
神からいただいている恵みは霊的命です。命を落としてはなりません。
そのために目を覚ましていなければなりません。 3 節に、
第一に「どのように受け、聞いたのか思い起こし、」。
第二は、「それを守り」。
第三は、「悔い改めなさい。」と勧められています。
世に関心が向き、主から心が離れていた事に気が付いたならば、それを悔い、汚れ、不信仰を告白し、そして世的な事から方向転換し主イエスに心を向けましょう。
Ⅲ 白い衣
サルディスの教会には、お叱りだけではなく「わずかだが、その衣を汚さなかった」(4節)クリスチャンがいました。
白い衣は、きよい品性を表しています。彼等は白い衣を着て、主イエスと共に歩んでいました。
ヘブル書には「きよくなければ、だれも神を見る事は出来ません」と記されています。
神様が求めている事は心の清さです。
人の心には罪の性質があって、自分の力できよくする事が出来ません。
しかしきよくなる事が出来ないのではなく、神の恵みによって、私達はきよくなる事が出来ます。
救いについて、初時的聖化と言われます。
キリストを信じて、新しい命が与えられ、きよい生活をしようとします。
しかし罪の赦しをいただいても、心の中に、罪を犯す原因としての罪の性質が残っているなら、心に葛藤があります。初時的聖化に続く聖化の恵みがあります。心に葛藤を覚えながら、天国を目指して歩むのではなく、神は私達の心をきよめて下さいます。
第一ヨハネ1:7に「御子イエスの血が全ての罪から私達をきよめます。」と約束されています。
主イエスの血とは、十字架の上で流された血です。血は命を意味しています。
主は私達の心をきよめるために十字架にかかり、命を犠牲にされました。その贖いによって、私達はきよめられるのです。
きよめの恵みを受ける条件は、キリストの血が私をきよめると信じて、祈る事です。
すべてを神にささげ、そしてキリストの血が私を信じるならば、神が心をきよめて下さいます。
サルデスには、わずかですが白いきよめの衣を着て、主と共に歩んでいる人がいました。
私達はみんながきよめの信仰を持ち、主イエスと共に歩きましょう。
やがて神の前で、主イエスから、私達の名を、天の父の御前と御使い達の前で言い表される者とならせていただきましょう。
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