説教者 新澤昭彦師
聖書箇所 ヨハネの黙示録3:12-17
黙示録3:12-17にはペルガモンにある教会への手紙が記されています。
Ⅰ 賞賛
13節 ペルガモンにある教会への賞賛は、激しい迫害の中で、信仰を捨てなかった事にあります。
ペルガモンには皇帝礼拝のための神殿が3か所あり、又ギリシャ神話に登場する名医アスクレピオスをまつる神殿がありました。そのために、皇帝礼拝の盛んな都市、偶像礼拝の町でした。
ローマ皇帝を礼拝しない者は、容赦のない制裁、迫害を受けました。
クリスチャンは主イエスを救い主、真の神と信じ、主イエスを礼拝し、他の神は礼拝しません。
ローマ皇帝を神として礼拝しないために、彼らは激しい迫害を受けました。
アンティパスは主イエスの御名を否まず、信仰を証しして殉教しました。
ペルガモンの信徒は、アンティパスが殺された時でさえ、キリストに対する信仰を捨てませんでした。キリストはそれを見て賞賛しています。
日本は、クリスチャンが少なく、礼拝に集まる人は少人数です。
人々の心は、キリストから離れ、偶像の祭りや行事が重んじられています。
この時代にキリストを証しする事は、迫害の時代より、もっと難しいかもしれません。
「しかしあなたは、わたしに対する信仰を捨てなかった。」とありますように、堅く信仰に立ち、キリストを証ししていきましょう。
Ⅱ 譴責 14.15節
「バラムの教え」、「ニコライ派の教え」を頑なに守っている者がいました。
バラムは民数記に記されている異教徒の預言者です。
イスラエルが、約束の地に向かって、旅している時、モアブの王バラクはイスラエルを弱らせるために、預言者バラムを招き、呪わせようとしました。バラクは長老を遣わし、バラムを招きます。
神はバラムに「あなたは彼らといっしょに行ってはならない。」と言われました。
バラムはバラクの所には行きませんでした。
そこでバラクは前より大勢の、しかも位の高い司達を遣わし、報酬を約束しました。
彼は、表面では神の声を聞きながら、心には、金銭欲がありました。
バラムは、神のみ旨に従うより、金・銀が欲しくなり、モアブに行きました。
バラムはロバに鞍をつけて出発します。
旅の途中、主の使いが抜き身の剣を手に持って道に立ちふさぎました。
ロバはそれを見て、うずくまりました。彼は怒りを燃やして、三度も杖でロバを打ちました。
すると、ロバが口を開きました。
その時、バラムの目のおおいが除かれ、主の使いが抜き身の剣を手に持って道に立ちふさがっているのを見ました。主の遣いは「私があなたに告げる事だけを告げよ。」厳しく言われました。
モアブの王バラクはバラムにイスラエルを呪うように要求しました。
しかしバラムが預言したのは、呪いではなくイスラエルの祝福でした。
バラムは、うわべは神に従いました。
しかし腹の中では、報酬を期待し、金・銀が欲しかったのです。
彼はイスラエルを呪えなかったので、報酬を受ける事が出来なかったでしょう。
しかし彼は報酬として受けることをあきらめませんでした。
民数記25章に、イスラエルの宿営にモアブの娘達が近づいた記事があります。
イスラエルの男達は、モアブの娘達に心が引かれ、男女間の淫らな事をし始めました。
そしての娘達は、モアブの神々のいけにえの食事に招いて、イスラエルの民はそこで食事をし、モアブの娘達の神々を拝みました。彼らは姦淫と偶像礼拝の罪を犯します。
このことから神罰がおこり、イスラエルの24,000人が死にました。これを企てたのはバラムでした。
黙示録2:14に記されている「バラムはバラクに教えて、偶像に献げたいけにえをイスラエルの子らが食べ、淫らなことを行うように、彼らの前につまずきを置かせた。」とはこのことです。
「同じように、あなたのところに、バラムの教えを頑なに守る者たちがいる。」外側は敬虔なクルスチャンを装っています。しかし心にある者は肉の欲でした。
神よりも地上の富に心を奪われていました。彼等は性的な過ちを犯し、神の前に生きようとはしていませんでした。バラムの教えとは、そういう事を認め、教える教えです。
ニコライ派の教えも世俗的で、バラムの教えと共通していました。
彼等は、神が救って下さったのだから、何をしてもよいと教え、道徳を廃棄しました。
2:12にキリストは、『鋭い両刃の剣を持つ方』と記されています。キリストは御言葉を持ってさばきを行われる方です。隠れている罪を明らかにし、心の奥底までも見抜かれる方です。
ペルガモの教会への奨励は、「だから、悔い改めなさい。そうしないなら、わたしはすぐにあなたのところに行き、わたしの口の剣をもって彼らと戦う。」です。
もし神の前に、隠している罪があるなら、悔い改めなければなりません。
罪を悔い改めて、キリストを信じるならば、神は赦して下さいます。
Ⅲ 約束 17節
勝利を得る者とは、悔い改めて信仰に立つ、神の前に歩み続ける人です。
彼らには、「隠されているマナまた、白い石を与える。」と約束されています。
「隠されているマナ」とはキリストです。イスラエル人が、荒野の旅をした時、神はマナという不思議な食物を降らして下さり、イスラエル人は、マナを食べ、生かされ、約束の国への旅をしました。
主イエスは「モーセがあなたがたに天からのパンを与えたのではありません。
わたしの父が、あなたがたに天からのまことのパンを与えてくださるのです。」(ヨハネ6:32)
そして「わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。そして、わたしが与えるパンは、世のいのちのための、わたしの肉です。」(ヨハネ6:51)
と言われました。
荒野でのマナは、肉体を生かす糧です。マナを食べた人々は荒野で死にました。
主イエスは天からのパンで、魂を生かす糧です。私達が生かされるのは主イエスによってです。
悔い改めて、主イエスを信じる。心に主を迎えるならば魂が生かされます。
その人は永遠の命を持ち、終わりの日に甦ります。
日々私達が生かされるのは、主イエスによります。主イエスへの信仰。
そして日々の主イエスとの交わりは私達の魂を生かしていきます。
白い石は何か不明ですが、白い石には、新しい名が記されています。
新しいという言葉は、カイノスという言葉で、これは質的な変化を表す言葉です。
新しくなったとは、新しい性質に変えられたことです。
悔い改め、キリストを信じるならば、その人は新しくされます。
愛の人、柔和な人、正義を行える人、真実な人、広い心で隣人を受け入れる人になります。
人の力によるのではなく、主の前にへりくだり、キリストを受け入れ、キリストに住んでいただき、隠れたマナであるキリストによって生かされ、キリストによって新しい者とされて生きる者とならせていただきましょう。
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