「主イエスの栄光の姿」

説教者 新澤昭彦師

聖書箇所 ヨハネの黙示録1:9-20


 Ⅰ 七つの教会  

私は主の日に御霊に捕らえられ、私のうしろにラッパのような大きな声を聞いた。

その声はこう言った。「あなたが見たことを巻物に記して、七つの教会、すなわち、エペソ、スミルナ、ペルガモン、ティアティラ、サルディス、フィラデルフィア、ラオディキアに送りなさい」

私は、自分に語りかける声を見ようとして振り向いた。振り向くと、七つの金の燭台が見えた。(1:10-12)  「ラッパのような大きな声」声の持ち主は主イエスです。

11節に7つの教会の名称が記されています。エペソを始めとして、小アジアにある教会です。

これは7つという限られた数ではなく、すべての地域の教会、すべての時代の教会を意味しています。ヨハネは主イエスの黙示を見ました。主は、ヨハネが見た事を巻物に記し、教会に送るように命じました。  

12節、ヨハネが振り向くと、七つの燭台が見えました。これは教会です。

神殿の聖所には燭台がありました。その燭台は、7つの枝に分かれていました。

それぞれの枝の先端には灯皿が付いていて、そこに油を注いで、聖所全体を照らすようになっていました。 教会が7つの燭台にたとえられていることは、今の社会で、教会が世の光として、福音の光を輝かせる、主イエスを証しする使命がある事を暗示しています。

主イエスは「あなたがたは世界の光です」と言われました。  

今はキリスト教について、聖書について無知な時代です。

そういう意味で、暗い闇があります。教会はこの時代を批判したり、さばくのではなく、この時代に、暗闇を照らす光として、キリストを証する事が求められています。  

「また、その燭台の真ん中に、人の子のような方が見えた」(13)。人の子は主イエスです。

燭台は教会です。主イエスは教会の真ん中におられます。そして教会の力となって下さいます。

ラルフ・アールは「一般に、苦難の時こそは神が御思いを人に啓示なし給う絶好の機会となるのではないだろうか」と言っています。苦難に会うときどうして神は私を顧みて、苦しみからたすけて下さらなかったのだろうかと思います。

しかし、しばしば苦難は、神が語りかけ、神の力を表す機会となります。  

黙示録の書かれた時代、教会は大迫害のさなかにありました。

けれどもその教会の真ん中に主イエスがおられました。教会は守られただけでなく、迫害時代の中にあって、ますますクリステャンの数は増えて行きました。  

これから社会が暗くなっていく時、信仰のゆえに、批判されたり、誤解されて、辛い経験をすることが起こるかもしれません。けれども教会の真ん中におられる方は主イエスです。

主はあらゆる事の中に働いてくださり、守って下さるだけでなく、苦難を通して、神の力を表して下さいます。

 

Ⅱ 主イエスの栄光の姿  

13-16、ヨハネが見た主イエスの姿は、神の栄光と力に満ちた姿でした。  

13 「その方は、足まで垂れた衣をまとい、胸に金の帯を締めていた」

「足まで垂れた衣」は、祭司の服装でした。「金の帯」は、権威、力を表しています。  

14 「その頭と髪は白い羊毛のように、また雪のように白く」、白髪は長寿の証です。

ここでは主イエスの永遠性を表しています。  

14「その目は燃える炎のようであった」目は、知恵、洞察力を表しています。

主イエスの前に隠せるものはなく、心の隅まで洞察し、この人はどんな人かを見抜いています。

主の柔和のまなざしには、すべてのものを見抜く力が秘められていました。

主の目に触れたなら、何も隠すことが出来ません。

隠れている罪が主イエスにみぬかれて、認罪を感じおののくでしょう。  

15 「その足は、炉で精錬された、光り輝く真鍮のようで、」これは偉大な力、権威を意味していることと思います。主イエスはそのような方です。  

15「その声は大水のとどろきのようであった。」ヨハネは海岸線外で出来ているパトモス等に島流しになっていて、地響きのするような大波が岩にぶつかる声を聞いていたでしょう。主イエスの声は、大波の轟のようでした。  

16 「口から鋭い両刃の剣が出ていて」、口から出るのは言葉です。

主の言葉は、鋭い諸刃の剣のようでした。ヘブル4:12に「神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄を分けるまでに刺し貫き、心の思いやはかりごとを見分けることができます。」と椅子されています。

御言葉には、心の奥底まで光を与え、悔い改めに導く力があります。

主の言葉には、心の奥底まで貫いて、明らかにする力があります。  

16「顔は強く照り輝く太陽のようであった」。主のみ顔は神の栄光で輝いていました。

その輝きはあまりに強いので、見ることが出来ません。  

1:17 この方を見たとき、私は死んだ者のように、その足もとに倒れ込んだ。  

ヨハネが栄光に輝く主イエスの姿を見た時、彼は死んだ者のように、その足もとに倒れ込みました。

主イエスの姿には、聖さ、人の力を越えた権威、見つめるが出来ない栄光があります。

ヨハネは栄光の主の姿を見て死人のようになりました。

けれども、主イエスはヨハネを見捨てませんでした。  

17すると、その方は私の上に右手を置いて言われた。「恐れることはない。」  栄光に輝く力と権威に満ちている方ですが、ヨハネに近づき、右手をおいて下さいました。

そして「恐れることはない」と言葉をかけて下さいました。  

主イエスは「生きている者である。わたしは死んだが、見よ、世々限りなく生きている。また、死とよみの鍵を持っている。」(18)と言われました。  

主イエスは永遠から永遠に生きておられる方です。そのお方が、私は死んだと言われました。これは十字架です。誰も主のさばきに耐える事が出来ません。しかし主は罪人を救うために、十字架にかかって下さいました。

そして復活され、贖いが完成している事を証明されました。

誰でも主イエスを信じるなら赦され、神との和解が与えられて、主に近づく事が出来るのです。  

もし鍵を持っていなかったら、家に入る事が出来ません。天国の鍵を持っているのは主イエスです。人は自分の努力や善行で天国に行けるのではありません。主は十字架にかかり甦られました。このお方だけが天国の鍵を持っています。主があなたのために鍵を開けて、天国に入れて下さるのです。

【公式】西調布キリスト教会

この教会は、メソジスト系の聖書信仰に基づくプロテスタントの教会です。 聖書から、神の愛のメッセージが語られています。 東京都調布市上石原2-26-13( 京王線西調布駅より徒歩3分) ☎042-485-1351

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