説教者 新澤昭彦師
聖書箇所 エペソ4:11-16
Ⅰ 教会の建て上げ
教会はキリストのからだです。
体には手、足、目、口などの部分があるように、教会は、キリストを信じる信仰により救われた人々の集まりです。そこには、いろいろの人が集まっています。
各々に違いがありますが、キリストのからだとしての教会は一つです。
今から約2000年前、ペンテコステの日に教会は誕生しました。
神様は教会を誕生させ、そして教会を建て上げようとなさっています。
父なる神様は、御子イエス様を世界に遣わされました。
そして、神はイエス様を通して力ある御業をなさり、イエス・キリストを通して神の御心を語り、神を現わして下さいました。人々はイエス様によって神の声を聞き、神の恵みにあずかりました。
けれども主イエスは天に帰り、現在、私達は主を目にすることは出来ません。
主が天に帰られた後、神は教会を通して、恵みを伝え、神を現わそうとしています。
今日、神様は教会を通して働かれています。キリストは神の恵み深い働きを実現させるために、「ある人たちを使徒、ある人たちを預言者、ある人たちを伝道者、ある人たちを牧師また教師としてお立てになりました。」(11)。
これらの人々は教会を建て上げるために指導的な働きをする人々ですが、支配するのではなく、しもべとして仕える人々です。教会を建て上げる働きをするのは、これらの人々だけではありません。
12節に「それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためです。」とありますように、聖徒達、即ちすべてのクリスチャン達です。奉仕の働きをするのは、教会員全員です。伝道者、牧師、教師は、信徒の方々が、奉仕の働きをするために、それらの人々を整えなければなりません。
私達の教会は開拓伝道で0からスタートでした。その中で、牧師がいろいろな事をしなければなりませんでした。しかし、教会は牧師一人が動き回るのではなく、聖徒達が整えられて奉仕をして、教会が建て上げられるのです。
Ⅱ 愛による一致
体は手や、足や、口や、耳や、目、その他多くの器官からなっています。
その器官が結びつい体を形成しています。教会はイエス・キリストを信じる信仰によって、主イエスと結びつき、お互いがキリストのからだとして結びついています。
クリスチャンは同じ主イエスを信じました。そしてキリストの体である教会に所属をします。
しかし各自は同じではありません。人格は違います。それぞれの考え、意志、願望があります。
また能力、性格、賜物など、それぞれに違いがあります。
違いがある事は、神の深い知恵によります。体の各器官は自分のためではなく、体全体のために、機能を生かして働き、保持され、また成長します。
キリストのからだである教会も、教会に属する一人一人が、与えられている賜物を生かして、自分のためではなく、主のために、教会のために、主に仕えていく時に、保たれ、また成長し、建て上げらます。私達は神からいろいろな賜物を頂いています。しかし能力・賜物は同じではありません。
「力量にふさわしく働く力によって」と書いてあります。
自分の働きが小さく見えても、教会にとって、なくてならない働きです。
神にすべてをささげ、心から主に仕えましょう。
体を形成している骨も内臓も神経もみんな形が違います。
しかし体の中で一つに結びついています。そして健康を保ち、からだとして機能し、成長しています。教会はキリストのからだです。キリストを信じて救われ、体に属する私達、それが一つにならなければ、キリストのからだの機能を果たすことが出来ません。お互いに違いがありますが、からだ全体は、あらゆる節々を支えとして組み合わされ、つなぎ合わされ、それぞれの部分がその分に応じて働くことにより成長します。
「愛のうちに建てられる」とありますように、違いのある人々が集るところで、しっかり組み合わされ、結び合わされるために、必要なのは愛です。
その愛は、私達のために命を捨てて下さったキリストの十字架の愛です。主イエスは自分の事を考えていたのでなく。人々の救いを考えていました。人は神に対して罪を犯し、罪が神と人を隔てていました。人の本当の不幸は罪です。主イエスの心にあったのは愛です。主は罪人の救いをお考えでした。イエス様は罪人の罪を御自分で負われ、そして罪人を赦し、祝福するために、ご自分の命を犠牲にされました。主の愛は自分を捨てる愛でした。
教会に連なる人々が自己中心であるなら、教会はしっかり組みあわされ、結び合わされ、成長していくということは起こりません。どこか冷たい、そして心が解け合わない集まりとなるでしょう。
しっかり、組み合わされ、結び合わされるために、キリストの愛を知り、愛に生きるものとなる必要があります。クリスチャン相互の愛によって、教会は建て上げられていくのです。
ヨハネは「キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです。」(ヨハネの手紙第一3:16)と書いています。キリストの十字架の愛を深く知り、そして私たちもその愛に生きてまいりましょう。
Ⅲ 教会の成長
教会の成長は、単に人数が多くなり、教勢が増える事ではありません。
一人一人の成長が、教会の成長となっていきます。そして一人一人のクリスチャンの成長、それは、一人一人がキリストのように変えられていく事にあります。
13節に「私たちはみな、神の御子に対する信仰と知識において一つとなり、一人の成熟した大人となって、キリストの満ち満ちた身丈にまで達するのです。」と記されています。
成熟した大人とは、成長したクリスチャンの姿ですが、それは「キリストの満ち満ちた身丈にまで達する」ことです。さらに15節に「 むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において、かしらであるキリストに向かって成長するのです。」とあります。
教会は何に向かって成長するのかというと、「キリストに向かって成長するのです。」
伝道して、人々が救われ、教勢が伸びることは嬉しい事です。けれども、教会の成長として、求めなければならない事は、キリストのかたちに姿が変えられていく事にあります。
教会の成長は私達の願いです。そのために私達、および福音宣教によって救われる人々が、キリストのかたちに姿が帰られ、信仰に成長することを求めなければなりません。
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