創世記1章には、始めに神が天と地を創造したと、天地創造が記されています。
2章には人の創造と神が人に助け人を造られたことが記されています。
1:27.28には、神が人を神のかたちに創造されたことが書いてあります。
前回は、神は人を神のかたちとして造られ・人の生命、存在の大切さ・神との交わりを持つものとして造られたこと・そして神に似た道徳性を持つものとして人を創造されたことを学びました。
人は神を信じ、神と交わり、聖なる心を持ち、愛の生活をして神と共に歩むべきでした。
しかし3章には、始めの人アダムとエバが罪に陥っていく姿が記されています。
Ⅰ 罪の誘惑 創世記 3:1-6
始めの人、アダムとエバはエデンの園で畑を耕し、園を管理し、幸せな生活をしていました。
その頃、彼らは罪を知らず、神との交わりの中に過ごしていました。彼らは園の中にあるどの木からでも、思いのままにとって食べることが出来ました。しかし一つだけ神は禁止をしていました。
神は「善悪の知識の木からはとって食べてはならない。それを取って食べる時、あなたは必ず死ぬ」と命じられました。それは人が神の命令を守るかどうか、神への愛と従順のテストでした。
蛇が「あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、ほんとうに言われたのですか。」と言って、エバを誘惑しました。蛇はサタンを現しています。エバが罪に誘惑され、罪に陥っていく姿が、3:1-6に記されています。
誘惑を感じる事は誰にもあります。誘惑を感じる事は罪ではありません。
しかし誘惑に陥り、神に背く時、罪となります。
サタンは目に見えません。しかし実在し、神に敵対しています。人が神を信じ、神に従うことを憎み、人を神から引き離し、正しい道から引き離そうと誘惑します。
サタンは蛇の形でエバに近付き、彼女を誘惑しました。サタンは今も働き、私達を罪に陥れ、神から離そうと、誘惑します。
誘惑の第一歩は、疑いを抱かせることです。サタンは「神が本当に言われたのですか」と言いました。また神が、「それを取って食べる時、必ず死ぬ。」といわれたのに、蛇は「あなた方は決して死にません。」といいました。これは神の言葉に対する疑いです。聖書は神の言葉です。神は目に見えませんが、聖書から、私達に語っています。そこで、サタンは神の言葉に対する疑いを抱かせます。
サタンはさらに、神に対する疑いをエバに抱かせました。神は真実です。神は貴方を愛しています。神と共に歩み、神に委ね、神に従う道が幸いなじんせいがあります。しかし神への疑いを抱き始める時、危険は間近に追っています。試練にあうときに、サタンは神を信じてもこのように苦しむなら、神を信じても無駄だ、とささやきます。神は恵み深い、慈しみ豊かな方です。しかし疑ったなら、信仰が働きませんから、神が分からなくなります。そしてサタンの誘惑に陥りやすくなるのです。エバは、神の言葉よりも、サタンが言う言葉が本当に思えてきました。
罪とは知っていなが、を意志的に神の戒めを破る事です。誘惑を受けたり、誘惑を感じたりすることは誰にもある事で、それは罪ではありません。しかし意志が同意して、そして、行動する時に罪となります。私達の意志をしっかり神に向け、誘惑を断固退け、神の御心に従っていきましょう。
Ⅱ 罪の結果
アダムとエバが罪を犯したとき、二人の心と人生に何が起こったのでしょう。
(1)神の交わりの遮断 3:8
魂の幸いは、神と間の交わりの中にあります。神に信頼し、神との交わりの中にあるときに、心には喜び・平安があります。箴言の中に、「力の限り、見張って、あなたの心を見守れ、いのちの泉はこれから湧く。」という言葉があります。神との交わりにより、心の中から潤いの水がこんこんと湧いてきます。ですから神と共に生きる事が本当の幸いなのです。アダムとエバは、罪を犯したとき、神との交わりがなくなりました。8節、そよ風の吹く頃、園を歩き回る神の声を彼らは聞きました。罪を犯したアダムとエバは神から身を隠しました。罪のために神の前に出ることが出来なくなりました。
人は良心がありますので、罪があるならば心が責められます。そして神から遠ざかろうとするのです。罪責に責められると隠れたくなります。神から身を隠すならば、心の中に暗闇が忍び寄り、喜びも平安も希望も消えていきます。
(2)神のかたちの喪失 3:12
神は神のかたちに人を創造されました。神のかたちとは神の道徳的性質、愛、聖、義などです。
人を愛・聖・正しさの中に生きるものとして造られました。アダムはその聖、愛・正しさを持っていました。アダムには真実な愛があり、その愛の中にアダムはエバを愛し、二人は幸福な生活をしていました。しかし罪を犯したアダムに、妻への愛が失われています。
神がアダムに、「あなたはなぜ、食べてはいけないと命じておいた木から食べたのか。」と尋ねました。アダムはそのときに神の憐れみにすがって、悔改めるべきでした。しかしアダムは、「あなたが私のそばに置かれたこの女が、あの木からとってくれたので、私は食べたのです。」といいました。
アダムは自分が善悪を知る木の実を食べた責任を、エバに転化しました。さらに、神のせいにいたしました。堕落以前のアダムでしたら、エバの弱さをきっとかばったでしょう。高いところにある果物は、自分が取ってあげたでしょう。しかしアダムの心から愛が消えていきました。かつてのアダムでしたら、どんなことがあっても神を疑うことはなかったでしょう。たとえ苦しみの中を通っても、神の思し召しと受け入れて従ったでしょう。しかしアダムは神がエバを私のそばに置いたのでと、自分が犯した罪の責任を、神に転嫁しました。
罪とは神を信じない、神に背くことです。そして罪は自己中心です。高慢です。罪の中にとどまりつづけていく時に、罪はその人の品性を損なっていきます。人は聖と愛の中に生きるものです。神の背いて、自己中心に生きるときに、知らず知らずのうちに、品性を損ない、人間が神のかたちとして造られ、持つべき尊厳を失っていきます。
(3)労苦と死 3:17~19
神はアダムに、17節、あなたは一生苦しんで食を得なければならない。と言われました。どんな職業でも、働くことは大変なこと、働いて家族を養っていくことは大変なことです。私の家は太平洋戦争で、すべてが焼き払われましたので、少年時代、家族を養っていくために、どんなに両親が苦しんできたかを見てきました。どんな職業についても、いつの時代でも、人は生きるための苦労をしてきました。もし罪がなければ、人類はどんなに平和で、明るい社会を気づくことが出来たでしょう。罪がもたらしたのは、労苦でした。
そして苦しみだけでなく、罪は死をもたらしました。死は悲しみですし、痛みです。家族、友人など、愛する身近なものを失ったことで、人生がすっかり変わってしまう人は少なくありません。
19節、土に帰る。ちりに帰るということは、死を意味しています。
ちりだからちりに帰ると人間に死が宣告されました。誰もこの死の宣告を逃れることが出来ません。 人は永遠への思いを持っています。ですから永遠への希望を持って今を生きる事が出来るのです。
しかし罪は人かち永遠への希望を奪うのです。アダムの場合だけでなく、人が罪を犯す時、魂の死を刈り取る事になります。死の先に何の希望ももつことが出来ません。
嘘をついたり、隠れたところで、悪い雑誌を見ても誰もとがめないかもしれません。これくらいのことは誰もしている。しかし罪が、神に対する罪がどういう結果をもたらすか、神との交わりを遮断し、神の形を奪い、そして人生に苦しみと死をもたらします。罪はこれくらいのことと言って、いいかげんにすることが出来ません。
Ⅲ 神の救い 3:15。21。
罪を犯した二人は、自分達が裸であることに気が付きました。そしていちじくの葉で裸の恥じを被いました。罪を犯す以前に二人は裸でしたが、それを恥ずかしいとは思いませんでした。なぜかは分かりません。赤ちゃんのように無垢の心を二人は持っていたのかもしれません。あるいは罪を犯す前、神の栄光が二人を包んでいたのかもしれません。いずれにしましても、罪は彼らに恥じをもたらしました。そして二人はそれを隠そうとしました。しかしいちじくの葉はしおれます。枯れます。裸の恥じを覆うためには十分ではありません。神は二人のために皮の衣を作り、彼らに着せてくださいました。そして二人は裸の恥じを覆うことが出来ました。
アダムとエバが、腰に無花果の葉をつづり合わせたことは神を抜きにした人間の努力を表しています。人は善行によって罪を帳消ししようとしても罪責を消す事が出来ません。難行苦行しても心の罪責を消すことは出来ません。これからはよい人になります。しかし無花果の葉が枯れるように、人の決心は変わっていくものです。神は二人に皮の衣を与えました。それは神の義を表しています。皮の衣を作るためには動物が殺されています。昔イスラエルでは、罪を赦していただくために罪祭がささげられました。そのために牛や羊が殺されたのです。牛や羊ではなく、罪のない神の御濃いエス様が私達に変わって十字架にかかって下さいました。誰でも罪を悔い改め、十字架にかかられた主イエスを救い主として信じるなら、神から義とされ、神との交わりを回復し、永遠の命が与えらます。
次回からイエス・キリストについて学びます。その後に、救いについて、学びますが、徐々にキリスト教の言う救いは何かを明らかにしてまいります。
0コメント