第九課 「真の神 真の人」

今回から、イエス・キリストについて学びましょう。

聖書は、イエス・キリストは真の神であり、真の人であると教えています。

クリスマスは、イエス・キリストが降誕された日であることは、誰もが知っていますが、神が人となって、世界に来られた日がクリスマスです。

ですから、クリスマスはキリストの誕生ではなく、降誕、ある聖誕された日と言われています。  

まず、ヨハネの福音書1章1-3.14 節を紹介します。  


1 初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。  

2 この方は、初めに神とともにおられた。  

3 すべてのものは、この方によって造られた。

造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。  

4 ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。  


「ことば」はイエス・キリストを指しています。ここでは、イエス様が真の神であり、そのお方か真の人となられて、人として歩まれたことが書いています。


 Ⅰ イエス様の神性  

「初めに言があった。言は神と共にあった。」(1節)ここで「言」とは、イエス様をさしています。

ここにある始めは、世界が創造される以前のことを言っています。イエス様は世界が造られる前からいらっしゃいました。そして父なる神と共に世界を美しく創造されました。父なる神は御子イエスによって、万物を造られました。イエス様は創造の神です。  

「言は神と共にあった。」(2節)世界の造られる前から、イエス・キリストは御子として父なる神と共にあり、神の栄光の輝きの中にいました。  

「言は神であった。」(3節)  イエス・キリストは共にいらっしゃっただけでなく、神御自身です。 神は唯一ですが、神は父なる神と御子なる神と聖霊なる神と三つの位格を持っています。ですから別々な方ですが、全く一つになって働いておられます。神は父なる神と御子なる神と聖霊なる神は、目的も、主張も、お考えも全く一つです。イエス・キリストは独り子としての神でした。  

昔からイエス様が神であることを否定する教えがあります。クリスマスに降誕され、ナザレで育たれ、イスラエルの地で巡回して伝道されました、そして十字架にかかられて死に、墓に葬られました。イエス様は生涯、人として歩まれましたので、イエス様を神として認め、信じることが出来ない人々がいました。しかし聖書ははっきりと、イエス・キリストは神様であると教えています。 イエス様は全知・全能の方であり、万物がイエス様によって造られたばかりか、万物を支配していらっしゃいます。イエス様は全ての人々の礼拝の対象です。イエス様は神様で、礼拝を受けるにふさわしい方です。  

イエス様は神様ですから、私達の祈りを開き。祈りに答えて私達を救い、助け、守る事が出来るお方です。人は自分の力に及ばない立場に立たされる時、思わず「神様!」とさけびます。こうして、神の中に助け・守り・安全を見出そうとします。しかし多くの人々は、神がどのようなお方か、どこにいますか、知らない神にさけび求めています。人々のさけびを聞き。祈りに答えて下さる神は、言は神であったと記されていますように、神の言として神を私達に現しなさったイエス様です。ですからイエス様に信頼するなら、確実に神の助けを得る事が出来るのです。


 Ⅱ イエス様の人性  

14節に、「ことばは人となって、私達の間に住まわれた」と書いてあります。  

人ということばはギリシャ語では、アンソローポスです。しかしここで人と訳されているギリシャ語はサルクスです。これは肉と訳されている言葉です。直訳すると言は肉となった、となります。ですから、「ことばは人となった」とは、イエス様が私達と同じ弱さを持った肉体を持ってこの世界に来た、ということです。神であるお方が真の人として、私達と同じくなってこの世界に来てくださいました。  

住まわれたということばは、天幕に住まわれたことを意味しています。昔イスラエル人がエジプトを出て、約束の地に向かって荒野を旅しているとき、彼等はテント生活をしました。定住する家を持たず、荒野を移動して天幕生活をしました。その間イスラエル人は、食料や水が不足する苦しみ、敵に遭遇する苦しみ、灼熱の荒野を行軍する苦しみ、様々な苦しみを乗り越えて移動いたしました。  

イエス様は真の人となって世界に来られました。イエス様は神殿や王宮の中に住まわれたのでなく、私たちの間に天幕生活をされました。世界には悲しみや、苦しみがあります。イエス様は人として、悲しみ、苦みがある社会の中で生きられました。  

永遠の始めからいらっしゃり、世界にある全てのものを造られたイエス様は、人間の母から生まれ、私達と同じ誕生を経験され、人としての生涯を過ごされました。  

もし神であったなら到底考えられない事がイエス様の生涯には起きています。イエス様は確かに真の神でした。しかしイエス様は真の人でした。イエス様は人として、弱い肉体を持ったものとして、そして私達が受ける苦しみ、痛み、悲しみを実に覚えつつ、地上の生涯を歩まれました。


 Ⅲ 神を現した  

ヨハネの福音書1章18節に、「いまだかつて神を見た者はいない。

父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。」と書いてあります。  

神様を見た人はいるでしょうか。自分は神だという人は今までにたくさんいました。

しかしそれらの人は神様ではありません。本当の神様は人の目に見ることが出来ません。神は霊ですから、人の肉眼で神を見ることが出来ないのです。天地万物を創造された方は、宇宙のはじからはじまで造られた方です。このような広大な宇宙自然を創造され、世界中の全ての人を慈しみの目を持って御覧になっている方は、人が目で見ることができるように方ではありません。  

神を見たい、そして神の真の姿を知りたい。それは人間の願いです。神をみて、神の真の姿を知ったなら、どんなときにも平安な心を保ち、揺るがない人生を過ごすことが出来るでしょう。  

もし神の真の姿を知ったなら、自分の人生の目標をしっかり持って、くいがない人生を生きることができるでしょう。 もし神の姿を見ることが出来るなら、私達は真理を知ることが出来るでしょう。

いまだかつて神を見たものはいません。しかし父なる神と共にいらっしゃった「ことば」、独り子の神が、この世界にこられ、私達の間に住んでくださいました。そのお方が神を説き明かされた。イエス様は真の神でした。このお方が私たちと同じ肉体を持たれ、真の人となられてこの世界に住まわれました。イエス・キリストを見るときに、私達は真の神を知るのです。イエス・キリストを見るときに、神の真の姿を見るのです。  

昔から人々は真の神を知ろうと努力をしました。哲学者達は神の存在証明をしようといろいろな説を作りました。また多くの人が神を求め、そして偶像を作り出しました。しかしどんな学説を立てても、それは神ではありません。どんなに頭のよい方が、神学を組み立てたとしても、それは私たちを救う事ができる、生ける神ではありません。人間が作ったり、考え出した宗教は熱心になっても、神を見ることが出来ません。  

しかし真の神である、神の御子イエス様は人となってこの世界にこられました。そして私達の間に住んで下さいました。このイエス様が神を解き明かされました。私達はイエス様によって、神を知る事が出来るのです。  

イエス様が人として私たちの間に住まわれたのは今から2000年前です。けれども、私達は福音書の中に、イエス様の言葉、行いを見ることが出来ます。イエス様の生涯を記した福音書だけでなく、新約聖書、そして旧約聖書もすべてイエス・キリストについてあかしするものです。私達が聖書を読んでいく時に、聖書の言葉からイエス様を知る事が出来ます。このようにイエス様を知り、イエス様の中に神の真の姿を知ることが出来るのです。真の神を知ることにより、私達の人生を変えられていきます。心を恵みに満たし、やすらぎと力を与え、その人の生き方を変えていきます。そして人生を輝かしいものにしていきます。

【公式】西調布キリスト教会

この教会は、メソジスト系の聖書信仰に基づくプロテスタントの教会です。 聖書から、神の愛のメッセージが語られています。 東京都調布市上石原2-26-13( 京王線西調布駅より徒歩3分) ☎042-485-1351

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