第十課 「キリストの教え」

前回はイエス様がまことの神、まことの人であった事をお話いたしました。イエス様は御子なる神として、父なる神と共に天におられました。天地万物の創造者であります。そのお方が、人となってこの世界に来られました。イエス様は30歳になるまで、ナザレで少年時代、青年時代をすごされました。30歳になって、公に救い主として活動されました。イエスは村々をめぐり、ある時はユダヤの会堂で、またある時は、屋外で人々に教え、病い・患いのある人を癒やされました。今回はイエス様がかたられた、教えの中から、学びましょう。


 Ⅰ 真の幸いについて  

マタイ5:3-11で、イエス様は真の幸いについて語っています。

だれもが幸いを求めていますが、ここで言われている幸いは、一般に考えられている幸いと同じではありません。しかし、ここでイエス様が語られている幸いに本当の幸いがあります。  

人生にはしばしばバラドックス(逆説)があります。富と地位を持ちながら、心が空しく、幸福と感じていない人がいます。また逆に、貧しくとも、一生懸命生きていた時のほうが幸福だったと思ったり、あるいは苦しい経験を通る事により、他の人を理解できる豊かな心を持つようになる事があります。何が人生の幸いか、イエス様が語られた教えの中に、真の幸いを見出す事が出来ます。  


「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。」(3節)  

貧しい人とは欠乏を感じている人です。心の中に、神の前に持つべきものをもっていないことに気が付き、欠乏の中から神に恵みを求める人です。人は、自分の欠乏に気が付きません。あるいは認めようとしません。けれども欠乏に気が付いて、神に恵みを求める人は幸いです。  

真実の愛・永遠の希望・内的喜びは私達の力で得る事が出来ません。また私達は自分で自分の心を新しく変える事が出来ません。それは神によって与えられるものです。心の貧しい人とは、自らの罪深さ・無力さを認めて、謙遜に神の恵みを求める人です。  

謙遜に、素直になって、主イエスを救い主として信じる人は、神の恵みを受け、永遠の生命が与えられます。地上では神と共に愛と喜びの中を歩み、やがて天国で永遠に言葉に表現出来ない祝福の中に生きるでしょう。 

 

「悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるからです。」(4節)  

一般に悲しみと幸いは、同居することができません。愛する者を失ったり、病の床に伏せたり、失敗や貧しさの中に、人は悲しみを覚え、涙を流すこともあります。  

しかし神だけにしか希望を託すことが出来ない状況の中で、神様、どうか私を憐れみ、助けて下さいと祈る時、神は祈りに応えて助けて下さり、悲しみから解放して下さいます。その人は慰められます。苦しみの中を通らなければ経験できない、深い慰めを受けるでしょう。  

人にとって不幸の原因は罪です。罪がある時に、罪責で心は苦しみます。心の中に隠れた罪があるならば、心の平安を保つことが出来ません。ある人は神の前に、罪があるのに、気が付きません。

しかしある人は、神の前に自分が罪深いことに気が付き、悲しみます。その悲しみは悲しみに終わりません。神は赦しの神です。神に罪を告白し、そして救い主イエス様を心に迎えるならば、神は赦して下さり、正しい者として認めて下さいます。その人は、神との交わりを回復し、深い慰めを神より受けます。 

 

「柔和な者は幸いです。その人たちは地を受け継ぐからです。」(5節)

  柔和は優しさ、謙遜、親切などを伴った品性です。柔和な人は隣人に対しては、謙遜で、優しく、親切です。隣人との正しく、美しい交わりが生まれ、隣人からの信頼を受けるでしょう。さらに柔和な人は、罪や誤りに陥っている人に対し、怒らせないで、誤りを認めさせ、正しい生活に導きます。  

「義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるからです。」(6節)  

義とは、心と生活が神のみ心と一致することです。義を追求することは、義務でなく、飢え渇きです。飢え渇きは心の中から生まれてきます。そしてそれを得るまで、満足できません。逆説になりますが、義に飢え渇く者が本当に満ち足りた者となることができます。義、即ち、神のみ旨をさらに知りたい、神に喜ばれる人になりたい、と渇き、求める人が義を得るでしょう。  


「心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るからです。」(8節)  

本当の幸いを得る人は心の清い人です。心は言葉と行為の源泉です。清い心からきよい言葉、行為が生まれます。神は聖なる方で、「あなた方も聖でなければならない」と言われました。神に近づく道は「きよき」です。そこに心の喜び、平安があります。もし汚れがあるなら心は曇、神に近づくことが出来ません。  清くなければ、幸いな人生を過ごすことができません。人は自分の願い、努力によって、心を変、きよくすることが出来ません。けれども神は心をきよめてして下さり、神と共に歩む幸いな人生を導いてくれます。


 Ⅱ まことの宗教について  

宗教について私達日本人は暗いイメージを持ちますが、本来宗教は、天地万物の創造者である、神を礼拝し、神と共に歩む、人生の道を教えるものです。きよさや、本来人間が生きるべき道や真理を追究するものです。ですから、宗教は、科学、文学、法律学、政治学、その他全ての学問の基礎となるものです。ある人は、神学は全ての学問の女王だと言いました。それは決して誇張ではありません。

 マタイ6:1-18でイエス様は真の宗教に触れて教えられました。その中で、繰り返して言われていることは、「人に見せるために」というフレーズです。

イエス様は、善行(14)、施し(2-4)、祈り(5-15)、断食(16~18)について語られました。

 主イエスの時代に、イスラエル人の大部分は、バリサイ派の信仰をもっていました。彼等は神について知識をもっていました。信仰の篤い人、特に律法学者などは人々から尊敬を受けていました。しかし彼等の信仰は形式的・外面的で、心の中に純粋な神への愛・憐人愛がありませんでした。彼等の良き行いは心の中の愛から生まれてくるものでなく、人によく見られたい、と言う自己中心的なものでした。  

真実な信仰の特色は、神の前の信仰です。施しをする時、人に見せようとして、するのでなく、純粋な神と隣人への愛から、少しでも役に立てば、と献げるものですし、そこには、人に見せようという意識がないばかりか、自分でも自分がどんなに良い事をしたのか、意識しません。  

祈りは神との交わりです。祈りによって、その答えを見るでしょう。それはかりか、祈りは敬虔な品性を培います。そして天国にて、神より豊かな報いを安けることでしょう。しかし当時の学者・パリサイ人は市場など人が集まる所に出かけ、人に見せるために長い祈りをささげました。  

神は人々の動機をご覧になります。真実な信仰は外面的なものではなく、純粋な神への愛、燐人への愛に基づきます。


 Ⅲ まことの生き方について  

イエス様は「それで、何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。これが律法であり預言者です。」(マタイ7:12)と言われました。  

このみ言葉は黄金律といわれています。金はもっとも価値のある金属を表しています。昔から多くの人は金を宝として残してきました。不変で最も価値があるもの、地上の宝ではなく、人が大切に守らなければならない規則がこのみ言葉です。このみ言葉が意味していることは、隣人への愛です。イエスの教えの中心は愛です。  

私達はひとりで生きているのでなく、人々に囲まれ、多くの人の助けを受けて生活しています。ひとりで生きているのではなく、助け合い、支えあって生きているのが人です。ですから、人に親切にしてほしいですし、困ったときは助けてほしいですし、話を聞いてほしいこともあります。ところが人は自分だけしか見えない、という傾向があります。自分本位に考えていますと、だれも私の事を心配していないとか、私の事を考えていない、自分ばかりが損をしていると思いがちになります。いつも自分本位に、自分の側からしかものが見えませんと、隣人を理解する事が出来ません。隣人に必要な助けをする事が出来ないでいます。狭い人間性しか持つ事が出来ません。  

けれども愛は、他人の立場に立って物事を考えます。もし自分だったらこういう場合、何をしてほしいのか、考えます。そして自分にしてほしい事を隣人にしてあげます。そのためには、自分のしたいこととか、時間とか、ある場合は金銭を犠牲にする事があるかもしれませんが、愛は喜んで、隣人に自分をささげて、自分にしてもらいたい事を、隣人にするのです。  

イエス様は冷たい教えではなく、生涯、愛する事を教えられました。イエス様は、わたしがあなた方を愛したように、あなた方も互いに愛し合いなさいと教えられました。イエス様は人々の上に権力を振るうのではなく、謙遜な心を持って仕える事を教えられました。又神が赦してくださったように、赦す事を教えられました。受けるより与えるほうが幸いであると教えられました。また愛を持って一致する事を教えられました。イエス様の教えは愛の教えです。

【公式】西調布キリスト教会

この教会は、メソジスト系の聖書信仰に基づくプロテスタントの教会です。 聖書から、神の愛のメッセージが語られています。 東京都調布市上石原2-26-13( 京王線西調布駅より徒歩3分) ☎042-485-1351

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