第十一課 「キリストの十字架」

十字架はキリスト教の教えの中心です。

イエス・キリストの十字架の死なしには、人は神に近づくことも、神を知る事もできません。 

聖書はイエス・キリストが十字架にかかることは神の御心だったと教えています。

何故イエス・キリストは神の御心に従い十字架にかかり、命を犠牲にされたのでしょうか。  

歴史的に見るならば、イエス様を十字架につけるために訴えたのは、ユダヤの指導者達でした。

十字架刑を執行したのは、囚人を死刑にする権限を持つローマの総督ピラトとローマの兵士でした。 

金曜日午前9時、イエス様はゴルゴダの丘ではりつけになりました。  

その12時、全地が真っ暗になり、その暗闇は午後3時まで続きました。

その暗闇の中で、イエス様は「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」と叫ばれました。

これは「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか。」という意味です。  

イエス様は十字架の上で、父なる神様から見捨てられてしまいました。

イエス様は常に父なる神と交わり、父なる神の御心を行っていました。

父なる神はイエス様に「これは私の愛する子」と天から御声をかけていました。

父なる神との交わりがイエス様はどんな苦しい時にも、支えとなっていました。しかし十字架に上で、イエス様は父なる神から見捨てられました。このようにイエス様が父なる神から見捨てられ、十字架の上で苦しまれたのは人類の救いのためでした。  

イエス様は「完了した」と叫ばれ、「父よ。わが霊を御手にゆだねます。」と言って、頭を垂れて、息を引き取られました。


 十字架の苦しみの意味  

イエス様は神の御子です。イエス様は、心にも行いにも、罪も汚れもありませんでした。

なぜイエス様は十字架にかかられたのでしょうか、なぜイエス様を十字架につけて苦しめることは神の御心だったのでしょうか。イザヤ53章より十字架の意味を考えましょう。


 一、私達は羊のようにさまよい、罪の道を歩んでいました。  

「私達はみな、羊のようにさまよい、それぞれ自分勝手な道に向かって行った。」(イザヤ53:6)

と記されています。これは人間の姿です。聖書に、神の前に、すべての人は罪を犯したと書いてあります。罪という言葉はヘブル語ではハーターです。これは道をはずす、的をはずすと言う意味の言葉です。歩むべき道からはずれて歩む、人生の目的から外れて生活をすることです。羊のように迷い、自分勝手な道に向かっていったと言うことは、罪の姿をあらわしています。  

聖書が教えている罪とは、神を信じない、神に背くことです。神は天地万物を創造され、それを保っています。そして今日まで私達を守ってくださいました。聖書は神を信じ、神が愛であるように、愛の中に生きるように教えています。けれども、神を信じない、神に背を、そして神が教えている愛の戒めを守らないで、自己中心に生きる事が罪です。私達は聖書を読んでいない、神の戒めを知らないというかもしれません。しかし、神は良心の中に光を与えて、正しい基準を教えています。良心に光が差し込み、「してはいけない」ことをする、あるいは「しなけばならない」ことに事に罪があります。  

神を信じない、神の御心を心に留めて、神に従おうとしない。自分を神として、自分の考え通し、自己中心に生きるならば、その生き方は羊のように道から迷っていた者という事が出来ます。  

私達はみなとありますように、以前、私達はみな、羊のように迷う、的をはずして生きる。罪の中に生活をしていました。


 二、神は私達すべてのとがを彼に負わせました  

53:6に「主は私達すべての者の咎を彼に負わせた。」と記されています。  

私達はみな神の前には罪人です。しかし私達の全ての罪を、神は彼に負わせました。

「主」は父なる神様で、「彼」とは救い主、イエス様です。イエス様が私達全ての罪を十字架の上で負って下さいました。  

イザヤ53:4-5に知らされている「彼」はイエス様で、「まことに、彼(イエス様)は私達の病(魂の病である罪)を負い、私達の痛み(良心の呵責)を担った。それなのに、私達は思った。(イエス様は十字架にかかり)神に罰せられ、打たれ、苦しめられたのだと。  

しかし、彼は私達の背きの(罪の)ために刺され、私達の咎のために砕かれたのだ。」と預言されています。  

十字架がどのように苦しいか、それは私達の想像をはるかに越えています。ただ死刑に処せられるというだけでなく、残酷な罪を裁くために、息を引き取る最後まで、極限の苦しみを与える刑罰です。その刑罰があまりに残酷なので、当時は、ローマの市民権を持った人には十字架刑を科すことをしませんでした。キリストはその十字架に貼り付けになり、苦しみを受けられました。キリストは罪がありませんでしたのに、私達の罪、とがを背負われて、十字架にかかられたのです。キリストが十字架にかかり、私の罪を負ってくださいました。  

イエス様を十字架に掛けることは神様のみ心でした。イザヤ53:10に、「彼を砕いて、痛めることは、主のみ心であった」と記されています。父なる神にとって、御子イエス様は最愛のひとり子です。

その御子をどうして、むごい十字架につけることができるでしょうか。全能の神はあらゆる手段を用いて、十字架から御子を守るはずです。しかし彼を砕いて、痛めることは神のみ心でした。私達には、想像も出来ない神の痛み、神の犠牲、それは罪深い人類の罪を赦すためだったのです。神の愛の計り知れない深さを十字架に見ます。イエス様は恐ろしい刑罰を避けようとしないで、人類の救いのために、死に至るまで、十字架の死に至るまで神に従われました。  

イエス様は私が犯した罪のために、黙って私の罪を負って、十字架で私の罪の罰を受けてくださいました。イエス様の十字架に苦しみは人類を罪から贖うために、神から捨てられると言う苦しみでした。これはイエス様にとっても耐えられない最もつらい苦しみでした。この苦しみを負って、主は十字架の上で、命を犠牲にされました。


 三、彼のうち傷によって癒された  

イエス様の十字架の犠牲は、人類の罪を赦すため、私の罪を赦すためでした。

イザヤ52:5に、「彼への懲らしめが私達に平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私達は癒やされた。」と記されています。イエス様は十字架の犠牲によって、私達を赦してくださいます。

そして私達の心に平安を与えてくださいます。  

神の光で心が照され、探られる時に、隠れていたことが明るみになります。そして認罪を覚え、罪のために良心は責められます。心から平安がなくなり、暗くなり、力が奪われます。けれどもキリストは十字架に上で私達の罪を全て負ってくださいました。キリストは罪を赦してくださり、私もあなたを罰しないとおっしゃってくださいます。赦され、義とされ、罪がない者として、神は認めてくださいます。 

神に対する罪があるときに、心は病んでいます。正しいことができない。

悪い習慣を止めることができない。愛することができない。

みんなが楽しそうに生きているのに、それができない苦しみがあります。  

主イエスはそんな私達のために十字架にかかってくださいました。

そして主のうち傷によって私達の病を癒して下さいます。  

責められるものがなく神の前に立つことができるならば、平安が与えられます。

そのために心から力が湧いてきます。希望が湧いてきます。喜びが沸いてきます。  

イエス様は私達の心を癒してくださり、健康な心を与えてください。愛のうちを歩み、喜んで神に仕えていく、人生に導いてくださいます。

【公式】西調布キリスト教会

この教会は、メソジスト系の聖書信仰に基づくプロテスタントの教会です。 聖書から、神の愛のメッセージが語られています。 東京都調布市上石原2-26-13( 京王線西調布駅より徒歩3分) ☎042-485-1351

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