神の恵みにより、またイエス・キリストを信じる信仰によって救われ、神の子としてのスタートが始まりました。クリスチャンとしての歩みを最後に学びましょう。
救いのことを「新生」ということがあります。これは、霊的な命を持ったことを意味しています。
赤ちゃんがお母さんから生まれたように、私たちはイエスキリストを信じる信仰によって、新しく生まれました。赤ちゃんが誕生しても、生命を保ち、成長するためにミルク、適切な運動などが必要なように、クリスチャンとして成長し、成熱した器となるために、どのようにクリスチャン生活をしたらよいのか、このコースの締めくくりに学びましょう。
一、主イエス・キリストを常に信頼して、信仰に立ち続ける事
「信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい。」ヘブル人への手紙12:2 主イエスは私達を救うために十字架にかかり、三日目に復活されました。私常にイエス・キリストを私の主として仰ぎ、主に信頼いたしましよう。 救われて、多くの場合、喜び、平安などが伴います。けれども喜び、平安などは感情ですので、上がり下がりがあります。ある時には喜びを感じない、救われたという実感が持てないという事があります。キリストが心のうちにきてくださったような気がしないからといって、キリストが心のうちにおられないのではありません。往々にして、起こった事実に感情がついてゆくまでには時間がかかることがあります。神様と神様のことばに信頼し続けることが信仰です。そうすれば、感情も自然とついてきます。
ニ、聖書を毎日・規則的に読むこと。
第二テモテ3:16 をご覧ください。
聖書は神の霊感によって記された。神の言葉です。聖書を書いたのは、モーセ、ダビデ、パウロ、ヨハネ等の記者ですが、彼らは聖霊の霊感を受けて、律法、詩篇、書簡、福音書などを記しました。
神は聖書を通して、ご自身を啓示され、人類に語りかけています。
そういう意味で、聖書は神の言です。ですから聖書を読むことによって、私達は、神がどのような方か、また神のみ心は何かを知ることが出来ます。
御言葉は、神の約束を私達に教え、救いの確信を与え、また心に光を与えます。御言葉によって私達は導かれ正しい信仰に歩みをすることが出来るのです。 体の健康を保つために、毎日規則的に食事をとるように、聖書を霊魂の糧として読みましょう。これによって霊魂は養われ、クリスチャンとして成長することが出来ます。聖書を読み、聖書に養われてクリスチャンの歩みをして下さい。
①毎日、出来れば朝の時とか、時間を決めて定期的に読みましよう。
②聖書全体を規則的に読みましよう。
③御言葉が理解できるように、聖霊の助けを祈り思いめぐらしつつ、読みましょう。
聖書を通して与えられた光に服従いたしましょう。
三、神に信頼して、祈りましょう。
絶えず祈りなさい。 第一テサロニケへの手紙5:17
祈りは難しいことでなく、神との会話です。敬虔な心で祈るとき、神はそこにいて、私達の祈りを聞き、また私達の心に語って下さいます。そのような神との交わりを通して、私達は天の空気を吸うことが出来ます。ですから、しばしば祈りは呼吸にたとえて語られます。
第一テサロニケ5:17には「絶えず祈りなさい」と書いてあります。これは絶えざる神への信頼です。いつも祈り心を持って神の前に歩みましよう。それだけでなく、一日の内、どこかで時(朝がよい)を定めて「デボーション」と言われる祈りの時を持つように致しましょう。神は祈りを聞き、祈りに応えて下さいます。それだけでなく、私達が祈るのを、神は待っておられるのです。
祈りは神との会話です。ですから改まった言葉でなく、そこに神がいて、祈りを聞いて下さると信じて祈ります。始めに、神の御名を呼び、最後に、「主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。」と結びます。どんなことを祈ったらよいでしょう。
祈りには・・・ ・感謝・讃美があります。
神の恵みを覚え、祈りを感謝と讃美から始めることをお勧めいたします。
・悔い改めがあります。もし神の前に、罪・汚れ・過ち・不従順が思い出されたなら、十字架の贖いに信頼して、祈りの中に悔い改め、告白いたしましょう。
・願いがあります。御心にかなった願いならば、神は答えて下さる、これが私達の確信です。自己中心の動機からではなく、主のみ旨がなることを願いつつ、祈りましょう。
・とりなしがあります。家族・友人・教会・国家・世界のために、とりなしをいたしましょう。
信仰生活の始めは誰でも上手に祈ることが出来ません。母親が赤ちゃんの言葉を聞いて喜ぶように、神は私達が祈るのを待っていらっしゃり、祈りを喜んで聞いて下さいます。声を出してお祈りください。
四、日曜日は聖別し、礼拝に出席しましょう。
信仰生活とは礼拝の生活です。すなわち、神を拝み、全身をささげて神に仕える生活です(ローマ12:1)。その中心にあるのが聖日礼拝です。 礼拝は定められた時に、神の御前に召し集められて行うもので、聖日(日曜日)に全信徒が一箇所に集まって行うところに意義があります。信仰さえあれば、教会の礼拝に出なくても良いと考えるのは正しくありません。キリストに対する信仰によって、礼拝出席に励みましょう。
礼拝には、讃美・使徒信条朗読・主の祈り・聖書朗読・説教・祈祷・献金等が含まれています。また第一聖日には聖餐式が執行され、年に何回か洗礼式が持たれます。
讃美は、私達を救って下さった神に対する応答です。私達は神の偉大な力に信頼と賛美を、神の豊かな慈愛に平安と感謝を覚えて深い感動に満たされます。それは時として信仰の告白となり、懺悔となり、祈願ともなります。このような神に対する気持ちを表すのに讃美歌が用いられます。
使徒信条は、初代のクリスチャン達が信じていた信仰を信仰告白のかたちで明文化されたものです。内容は「私は信じる」と、・父なる神、・御子なる神、・聖霊なる神、・聖なる教会、・罪の赦し、永遠のいのちへの信仰が告白されています。短い文章の中に、キリスト教信仰がよくまとめられています。信仰の告白として、心から朗読いたしましょう。
主の祈りは、主イエスが教えられた祈りです。主の祈りの中には、私達が神に求めなければならない、最も大切な祈りがあります。 交読文は、詩篇を主体に、聖書のいろいろな個所から、司会者と会衆が交互に聖書個所を朗読いたします。そこには、祈り、讃美、信仰の告白、教えなどがあります。説教の主題、あるいはキリスト教暦などの時期、教会行事などを鑑みて、交読文は選ばれています。一語一語かみしめて、声を合わせて読みましょう。
聖書朗読は、その日の説教の聖書個所が朗読されます。聖書は神のことばです。神は今も聖書を通して語っていらっしゃいます。聖書が読まれるときは、自分の聖書を開いて、朗読される個所に目を留め、一語一語を心にとめるようにしましょう。
説教は、聖書を通して、神からのメッセージが取り次がれます。説教は単なるお話や、あるいは講演ではありません。開かれる聖書の御言葉を心にとめ、祈り心をもち、聖霊が聖書を通して、心にお語り下さる事を信じて、説教を聞きましょう。 開会祈祷、感謝祈祷が、ささげられます。個人的な祈祷と違って、会衆を代表して、神の前で祈ります。会衆は、祈りを聞くだけでなく、心を合わせ、その祈りは自分の祈りとして、終わりに「アーメン」とはっきり唱和いたします。
「アーメン」とは、まことに、真実に、等の意味ですが、祈りの終わりに「アーメン」と唱和するのは、私もこの祈りに真実に同意ですという信仰の現れでもあります。
献金は、神に対する感謝、愛、また信仰の現れとして神にささげられます。義務でも、会費でも、入場料でもありません。私達は、献金は神への感謝と愛から、自由な意思の表れとして、お願いしています。
祝祷は礼拝の締め括りに、1週間の営みに、神が共にいらして下さり、祝福して下さることを求める祈りです。会衆は祝福と力、使命感と勇気が与えられ、新しい週が始まります。
五、信仰の友と交わりを大切にしましょう
使徒信条に「信徒の交わりをなし」と告白していますが、キリストによって罪を赦され、神の子になった人々の間に霊的な交わりがあります。その交わりは、日曜日の礼拝、奉仕、そして祈りや励ましを伴う愛の交わりとして、教会の中で具体化されます。主が最後の晩餐の祈りの中で、「それは、父よ、あなたがわたしにおられ、わたしがあなたにいるように、彼らがみな一つとなるためです。」と祈られました。父なる神と御子なる神、そして聖霊は一つです。それと同じように主イエスの十字架の血潮によって贖われた世界のクリスチャンは一つなのです。私達の教会の交わりはその一致の中にあります。
教会の交わり(ギリシャ語のコイノーニア)は、キリストを中心とした信徒の共同生活です。信仰によらない、自然的共同体の交わりは、人間相互の欲望が基礎となっていることが多く、結局は自分のために他を愛することになりかねません。教会にある霊的共同体の交わりは、主にある愛と真実とが基礎となっています。つまり私と他者との愛でに立っているキリストを媒介として交わることであって、ここに本当の交わり、和合があります。 六、神の光の中を歩みましょう。
信仰生活は神と共に生きる歩みです。私たちは、神は遍在の神で、どこにいっても、そこにいますと信じています。また全知の神で、全てを知り、私たちの心の隠れた部分まで知り尽くしていると信じています。神は聖い光を持って私たちの心と生活を照らされ、隠れていることも、明るみに出されます。私たちはその神を信じ、神の御前に、神との交わりの中に生きています。神は光ですから、神との交わりの中に、私たちの生活の誤りが示されたり、心の中の汚れが示されることがあります。もし神の光を避けて生活するなら、霊魂は暗くなり、品性や表情にも影響を与えるでしょう。しかし神の光に応えて、悔い改め、告白、願いをもって祈るなら、神は真実ですから、赦し・きよめ・御旨にかなった歩みをする力を与えて下さるのです。そしてますます輝いたクリスチャンとして成長することが出来るのです。
救われ、信仰をもって生きることは今まで経験しなかった神と共に歩む生活です。神と共に歩む人生には、天の喜び、平安による心の潤があります。主イエスを信じる信仰により、神と共に人生の道を歩んでください。
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