牧師 新澤昭彦師
聖書箇所 詩篇1:1-6
詩篇は全部で150篇あります。
神様に信頼している人々が書いたものですが、神への礼拝、試練の中での祈り、昔の出来事の回顧、信仰生活への教え、神をほめたたえる讃美など、様々な形で、実際生活の中から出た、祈り、教訓、讃美が詩になっています。 私達の人生は喜び、そして苦しみや、悲しみなど、いろいろなところをとおります。
その中で、詩篇の御言葉は悲しみや苦しみの中にある人々を励まし、また信仰の勇気が与えられます。 詩篇一篇は詩篇150篇全体の緒論的な詩です。詩篇全体の入口です。詩篇一篇が「幸いなことよ」で始まり、最後の150篇は『息のあるものはみな、主をほめたたえよ。ハレルヤ。』と讃美で終わっています。詩篇全体が人生を歌っているとしますなら、詩篇は幸いな人生の入口で始り、神への讃美で締めくくられています。
どうしたら幸いな人生を生きることが出来るのか、その基礎的、根本的な法則が詩篇一篇には記されています。
Ⅰ 正しい者とは
幸いな人生は正しい者の道を歩くことにあります。正しい者とは、神に信頼し、神と共に歩み、神の御心にかなっている、神との正しい関係にある人を言っています。
1節をご覧ください。「幸いなことよ。悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座に着かなかった、その人。」と記されています。 正しい者について、その人の行為が、「歩まず」「立たず」「座につかない」という言葉で表されています。何でないということを表す消極的表現で、正しい者とは何かを言っています。
ここに記されている「悪者」「罪人」「あざける者」とは、正しい者が神に信頼し、御言葉に従って生きていこうとしているのに対して、正しい者の道を歩まない人々です。彼らは、神を離れ、御言葉を問題にしません。神の目的にかなった生活をしません。的をはずし、習慣的に悪を行います。そして神に従う人を、また宗教をあざけります。
「悪者」とは、正しい者の反対の言葉です。ただ道徳的なよい、悪いということではなく、神を信じない、そして神を心にとめないで、自己を中心に生きています。彼らは神の御心に従って生きようとするのではなく、自分本位に考え、自己中心に考え、企てます。
「罪人」とありますが、罪とは、的をはずすことです。神は神を礼拝し、神に従うように、神のかたちに似せて、人を創造しました。神を信じて礼拝する、神の栄光のために生きる、また御言葉によって神の導かれる道を生きる、これが正しい者の道です。
「罪人」とは、神を信じない、神を心に留めない、人生の目的を外し、神の御心から離れて、習慣的に悪を行う人々です。 「あざける者」は、神に対して、また正しい宗教に対して、反感を抱き、神と神を信じる人々を言葉であざける人々です。
悪者、罪人、あざける者は一つです。彼らは、神を離れ、神のみ言葉を問題にしない人です。彼らは、「歩く」とありますが、日々の生活、行動の中で、そのような生き方を実践します。「立つ」とありますが、そのように行動だけでなく、習慣的にその道にとどまります。そして「座」とありまいが、そこに座って、動きません。そして指導的な地位につき、神と正しい信仰に逆らって、反対し、悪い仲間を増やして正しい宗教に反対します。
正しい者はそのように生きません。彼らのはかりごと歩みません。道にたちません。座につかないのです。このように反対のことを言うことを通して、正しいものの道が何かを表現しています。正しい者とは神に信頼し、神と共に歩み、忠実に神に従う人々です。
イエス・キリストは「私は道である」と言われました。イエス様は神に近づく道です。
幸なことは、イエス様を信じ、神と共に生きる人々です。
そして日々神に信頼し、神との交わりの中に生きる人々です。
新しい年が始まりました。今年も正しいものの道を歩ませていただきましょう。
2節に「まことに、その人は主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。」と記されています。 正しい人の特色は、主の教えを喜びとして、その中に生きます。
「主の教え」とは、聖書を指しています。詩篇の作者がこの詩篇を歌ったとき、主の教えとは、新約聖書も預言書もない時代ですから、モーセの5書を考えていたと思います。
しかし今は、神は旧約聖書、新約聖書の聖書全体から私達に語りかけています。聖書は神の言葉です。聖書の中には、教え、戒め、約束、勧め等が満ちています。そして御言葉は私達の心の中で糧となり、私達の人生を導く光となります。 正しい人の積極的行為は、聖書を読む事を喜びとし、御言葉を口ずさむことです。 神は聖書を通して語っています。聖書を読むときに神は私達の心に語りかけ、そして聖書を通して、私達は神と交わります。聖書を読むことは喜びです。あなたにとって御言葉を読むことが喜びになっていますか。
あるクリスチャンは聖書を読みません。いろいろな読み方があります。精読や熟読や音読などです。ところが聖書が積読になっていないでしょうか。積読は勝手な造語と思っていました。ところが広辞苑に「積読」が出ていました。「積読=(その意味は)書物を読まずにつんでおくこと」。
日曜日に、聖書の上のほこりを払って、カバンにいれて教会に来る、そして礼拝から帰ったら、また聖書を机の端に積んで一週間読まないで過ごしてしまう。これは積読ですね。積読は読んだことになりません。
ある人は聖書を読みます。しかし聖書を読まなければならない。と、聖書を読むことが義務になっている。聖書は読むのですけれども、義務的に読むだけですから、聖書が心の中で糧となっていきません。
ここでは、その人は主の教えを喜びとし、とありますように、聖書を読むことが喜びとなっています。神を愛するゆえに、神との交わりを求め、またもっと神の御心を知り、信仰に成長したいと願い、聖書を読んでいく。正しい人はそのように聖書を喜びとするのです。
「昼も夜もそのおしえを口ずさむ。」と記されています。口ずさむという言葉は反芻することを意味します。旧約聖書に聖なる動物は、反芻する動物は聖なる動物と教えられています。芻する動物は、繊維質の多い草やわらなどを食べますが、口から胃に送った食物をもう一度口に戻し、咀嚼して、そして第二の胃袋に送ります。こうして繊維質の多い食べ物を消化して、栄養を取ります。これを聖書の言葉を読むことに当てはめるなら、繰り返し、繰り返し読んだ御言葉を思い巡らすことになります。「口ずさむ」という言葉は、引照つきの聖書では、欄外に「思い巡らす」と記されています。口ずさむことは思い巡らすことです。聖書を通して、神が何を私に語っていらっしゃるのかを思い巡らし、神のみこころはなんだろう、どうしたら神に喜ばれるクリスチャンになるのだろう、神の愛、神の恵みを思い巡らす。そして牛が食べたものを反芻して、繊維質の多い、わらが栄養になっていくように、御言葉を思い巡らすことによって、聖書が私達の心の糧となっていくのです。そして聖書から神の御心がわかる時、一足、一足、主に従っていくのです。
そのように生きる人は主から祝福を受け、何をしても栄えると約束されています。今年はぜひ聖書を読み、御言葉から神の声を聞き、一歩一歩神に従って歩んでください。
Ⅱ 正しい者の祝福 3節を御覧下さい。
「その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える。」 水路のそばに植わった木のようだ、ここの水路は「灌漑用水」を意味しています。
昨年12月25-26日に三沢に行って奉仕しました。東北新幹線に乗り、東京駅を出発し、町を離れると、車窓から田園風景を眺めます。水田があります、林があります。そして林の中に池がある風景を見ます。これは灌漑用水池です。灌漑用水池から水路を通して、田んぼに水を流します。水路にはいつも水が流れていますから、両側には、青々と木や草が茂っています。日照りが続いて旱魃かあるかもしれません。青草や、木々が枯れていきます。しかし水路のそばに植わった木は、いつも青々と茂っています。根を水路に伸ばし、旱魃のときにも水分を吸収しているからです。それは、人生のいかなるときにも、祝福と繁栄があることを約束している言葉です。
時が来ると実がなり、結実です。果実は季節が来ますと、おいしい実を実らせます。それはなんと素晴らしい祝福の情景でしょうか。人生において実を結ぶとは、受験の合格や、仕事の目標達成を意味しているかもしれません。またクリスチャンとしては、御霊の実、品性的結実を意味しています。あるいは魂が救われ、神の子として生きることを意味しているかもしれません。実を結ぶということはなんと素晴らしいことでしょう。正しい者の道を歩んでいく時、時が来ると、神が実を結ばせてくださいます。 その人は、何をしても栄える。なんとありがたい約束でしょうか。罪にかかわる商売ならば、神の祝福はないでしょう。しかしどんな職業でも、それは神が与えてくださった職業であり、また立場です。神がともにいてくださるならば、その道で神があなたを祝福して下さいます。
エレミヤ17:7-8をご覧下さい。ここにも神に信頼して生きる人の祝福が記されています。8節には、「暑さが来て」「日照りの年」が記されています。暑さ、日照りが暗示しているように、神に信頼する人の人生にも、苦難、行き詰まり、失敗、不況などが襲う事があります。
昨年は「災」という字が当てはまるほど、暗い出来事の多い一年でした。この社会の中に生きる私たちに、災いは、直接的に、間接的に、押し寄せてきます。神に信頼し、神と共に歩んでいる信仰者も試練の中を通ることあります。しかし正しき者の道を歩み、そして御言葉の中に生活をしていくなら、「日照りの年にも心配がなく、何時までも実を実らせる」事が出来るのです。正しき者の人生にも苦難があるでしょう。しかし神に信頼し神と共に歩むならば、神は苦難の中で守ってくださいます。そして豊かな祝福を与えてくださるのです。
Ⅲ 正しい者の道
6節に、「主は正しい者の道を知っておられる」と記されています。
神様に知られるということは、なんと幸いなことでしょうか。知るということは、知的に知るということ以上に、人格的な交わりによって知ることを意味しています。
神は正しい者の道を知っておられる。私が人生の道を歩む時、私は決して一人ではありません。いつも神が共におられます。そして神が私を知り、そして私と交わりを持ってくださるのです。神に知られていると言うことは素晴らしいことです。
神は全知全能の方ですが、恵みと憐れみに富み、愛のお方です。永遠の愛を持って神はあなたを愛しています。その神に知られる中に、私達は喜び・平安を覚え、どの道を進む時も、確信をもち、安心して生きる事ができます。神は正しい者の道を歩む人を喜んで下さり、正しい者を知っていて下さいます。
また知るということは、見ている、そして私を覚えていてくださることを意味していると思います。神は天からご覧になり、神に信頼する者の上に目を注いでいます。神の前に生きて、忠実に神に仕えていく時、多くの働きは人の目に隠れています。ある人の働きは誰からも評価されないかもしれません。しかし神は見ていて、働きを覚えてくださるのです。
神が見ていらっしゃるのは、成果ではなく、「忠実」です。一生の馳せ場を走り終え、神の前に立つ時、神から「忠実な僕をよくやった。あなたが忠実に従ったことを知っている」と言われるのです。天国に行って、神が私はあなたの忠実な歩みを知っているよといわれることは、どんなに大きな喜びでしょう。
ある人々から慕われ、感謝の言葉を受けます。しかし教会は牧師によって構成されているのでなく。教会はキリストのからだであり、クリスチャン全員によって成り立っています。そしてからだの各器官として、働いています。天国で称賛を受けるのは、牧師だけでしょうか。牧師は人に見られているかもしれませんが、神は一人一人をご覧になっています。この地上で注目を浴びなくても、天国に行った時、神はあなたの信仰、私への愛、そしてあなたの忠実な歩みと働きを知っているよとおっしゃってくださいます。
長崎県の西に、五島列島という沢山の島からなり列島があります。その中で一番大きな福江島という島があります。福江と言う町の中心に色ク美しいカトリックの福江教会があります。現在の聖堂は、1962(昭和37)年4月25日に献堂されました。昭和37年9月26日未明に福江市の市街地を一飲みに焼き尽くす「福江大火」という火事が起こりました。町全体が消失したのですが、福江教会は、中心地域にありながらも完成間もない聖堂だけが奇跡的に焼失を免れました。またこの火災による犠牲者は独りも出ませんでした。
この大火の時に、福江教会の神父は、教会を後にして安全な場所に避難しました。火が納まったとき、何よりも心配なのは、4月に献堂した聖堂のことでした。神父が消失した町に戻ってみると、焼け野原のなん中に、聖堂だけが焼けないで残っていたのです。この話はそこで終わりではなく、福江の大火があった時、独りの信徒が、聖堂の中で火が納まるまで祈り続けていたのでした。みんなが避難していく中で、誰も見ていないところで、火の中に一人残って祈っている信徒がいました。誰もそのことを知りませんでした。しかし神は見て、知っていました。多くの奉仕は人が見ていないところ目で、神に仕えます。その奉仕によって教会は支えられているのです。そのような奉仕は誰も知りません。しかし神は見て、知っていてくださるのです。
主は正しい者の道を知っておられる。
神の姿は見えません。しかし神があなたの生活を天から見ています。あなたの努力、真実さ、そして払った犠牲は誰にも知られないかもしれません。しかし神は見て、知っています。主イエスを信じ、神と共に歩む、あなたの信仰、あなたを愛を神は見て、その道を知っています。
新しい年が始まりました。新しい決意を持って新年のスタートをされたことと思います。神の御前に出て、自分の思いではなく、神にささげて、神の御心の中を歩ませていただきましょう。主イエスを信じ、そして聖書を読み、神の御心に沿った正しい者の道を歩ませて頂きましょう。
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