牧師 新澤昭彦師
聖書箇所 イザヤ35:8-10
イザヤは“そこに大路があり、その道は聖なる道と呼ばれる。”また、“主に願われた者たちは帰ってくる。彼らは喜び歌いながらシオンに入り、その頭にはとこしえの喜びをいただく。”と預言しました。
イザヤ書の34章までは、主にイスラエルと周辺も国の罪を責め、神からの審判が預言されています。イザヤが預言活動をしたのは、ユダの国でしたが、ユダは、イザヤが預言したとおり、罪のために滅びに向かっていきました。彼等はバビロンに攻められ、エルサレムは崩壊し、遠いバビロンの国に捕囚としてひかれていきました。
イザヤ35章は、ユダの民が捕囚からの帰還し、祝福の預言されています。けれども神がイザヤを通して語られた御言葉は、さらに壮大な啓示でした。それは、神が世界の人々を救い、神の子とし、永遠の命を与える、そして、輝かしい神の国に帰る約束が預言されています。
Ⅰ シオンにつながる道
“そこに大路があり、その道は聖なる道と呼ばれる。”と預言されている道を歩く人々が目指すところは、10節に「彼らは喜び歌いながらシオンに入り」とありますが、「シオン」です。
「シオン」は「要害」という意味です。エルサレムは、もとはエブス人の町でした。シオンの要害をダビデが攻略し、そこを「ダビデの町」とし、ダビデ王国の首都としました。ここが最初にシオンの丘と呼ばれました。その後、ダビデの町の北にある丘にソロモンが神殿を建てられました。その時から、この神殿の丘がシオンと呼ばれるようになりました。かつてはエルサレム南側の山をさしていました。そして、やがてエルサレムに神殿が建てられ、エルサレムをシオンと呼ぶようになり、神の都を意味して用いられるようになりました。
さらに新約の時代になり、シオンは、私達がやがて永遠に住む神の都をさしています。キリストを信じる人々が、帰る永遠の都がシオンです。
イエス様が空中再臨され、聖徒は栄光の姿に変えられ、天に引き上げられます。その後に患難時代がおこり、地上では、飢饉や地震、疫病、そして、戦争が起こります。最後の戦争は神様に背く戦争です。その軍隊はエルサレムに攻め上ります。けれども主イエスが地上に再臨され、神に背く軍隊は滅びます。そして主イエスが王となって、世界を納める時代が来ます。この時は千年王国と言われ、世界に平和が訪れ、犯罪や不正はなくなり、祝福された時代です。サタンが鎖につながれ、悪の力がとどめられています。けれどもそれがシオンではありません。1000年王国の後、悪魔が解放され、世界が混乱します。そして天地が過ぎ去ると言われている大きな変動が世界に起こります。今の天と地は過ぎ去り、そして新しい天、新しい地、新しいエルサレム、神の都が天から降ってきます。
そこは永遠の都、神の国、そして私達が永遠に住む住まいです。
そこには、神が共にいます、神の国に帰った時、神御自身が目の涙をぬぐい取って下さいます。
そこには、死も、悲しみも、叫びも、苦しみもありません。喜びが満ち、平安な都、また碧玉の嫉壁に囲まれ、純金の都が私たちの住まいです。都の中央には、水晶のような水が流れる命の川があるます。神が都の中心にいらっしゃり、人々は神を礼拝し、讃美しています。その神との交わり御心を潤し、喜びと讃美に包まれています。そここそイザヤ書に約束されている神の都シオンです。
Ⅱ 贖われた者が歩む道
神の都、シオンは夢物語ではなく、空想でもありません。神の約束です。
8節に「これは、贖われたものたちのもの。」 9節に「ただ贖われた者たちがそこを歩む」
10節に、「主に贖われた者たちは帰って来る。」と書いてあります。
シオンの都の入るのは、贖われた者です。贖いとは、代価を払って買い戻す事です。
神様は人を創造されました。神は人を愛し、祝福しようとしています。
永遠の祝福をもって祝福しようとしています。その究極の祝福は人を神の国に入らせることです。
神の国は清い所ですから、罪・汚れをもったままシオンに人る事は出来ません。神は聖なる方です。しかし人は神を離れ、たくさん罪を犯してきました。人を傷つけたり、殺したり、盗んだことはないかもしれません。けれども、ごまかしたことはありませんか。隣人を憎しみ、意地悪したことはありませんか。自己を主張して、他人を傷つけたことはありませんか、探っていきますと、なんと神様の前に罪の多いことでしょう。そんな私達に対する神の御心は愛です。神は人類の罪を赦すために、御子イエス・キリストを世に遣わし、十字架につけました。私達はどんな大きな代価を払っても、神に対する罪を償う事が出来ません。しかし主イエスが私達のために十字架上で罪の代価を払って下さいましたから、罪を悔い改めて、主イエスを信じるなら、神は私達を赦し、神の民として下さるのです。主イエスを信じる信仰により救われた者=願われた者が神の都に入る事が出来ます。 シオンへの道を歩く人はあがなわれたものです。わたしは正しいと言い張る事ではなく、神の前に罪を身と寝、悔い改めて十字架にかかられたイエス・キリストを信じるものがシオンへの道を歩くことが出来るのです。
シオン、神の都、そんなことは先の事ではないか、今楽しければよいという人もいます。しかし今という時は過ぎて、今の今は過去になっていきます。 私は昨年、9月くらいからクリスマスの事を考えていました。子供、婦人会、ハングルのクリスマス。また岸田姉を迎えての賛美礼拝、今年は23-日に礼拝、祝会、そして翌日はキャンドル集会、それが終わってから、三沢に行って、クリスマスをお祝いしよう。それらのために照らしを造ろう、また三沢の奉仕は今回が最後になるかもしれない。いろんなことを考えましたが、まだ9月、クリスマスは先の事でした。10月になってもクリスマスはまだまだ先の事でした。しかしクリスマスはきました。今ではクリスマスは過去の事になっています。時間というのはこういう面があります。先のこと、先の事と考えていたことが今の事となり、やがて、過ぎ去ったことになります。わたしが信仰を持ったのは、21歳でした。そのころ、76歳の自分は、考えてもいませんでした。生かしいまは後期高齢者と呼ばれる年齢になっている、現実があります。そうならば、この地上の別れの日が来ることも芋の事になりますし、シオンの都に入る日もいつかは今の事となります。
道はシオンの都まで続いています。今はそこについていないかもしれませんが、この道はシオンへの道です。罪が赦され、贖われた。今は神と共にイオンへの道を歩いている。その信仰をしっかり握って歩んで行きましょう。
Ⅲ 聖なる道
シオンに至る道があります。
それは甲州街道のような道ではなく、永遠の希望をもって神と共に歩むる霊的な道です。
その道の特色は聖です。神は聖なるお方です。わたしが聖であるから、あなた方も聖でなければならないと言われました。.シオンへの道は、聖なる道です。神の都は聖なる都です。私達はキリストを信じて、罪が赦されました。再び罪の生活に戻るのではなく、贖われた人として、清さを追い求めましょう。心の清いものは幸いです。その人は神を見るからですとイエス様は言われました。
聖さは、行い・言葉に現れますが、それ以前に心の問題です。清い心から、人を生かす愛の言葉が出てきます。清い心から、隣人への愛が生まれます。心の中に汚れ、自己中心・神への不従順がありません。動機におきましては、神と人への愛が満ち、そこから出る聖い生活を実践します。 清い心、それは人の力で作り出すことは出来ません。人は生まれながら、罪の性質を持っていて、心にある汚れを除くことは出来ません。 シオンへの道は聖なる道、贖われた人がその道を生きる。
しかし人間の中に罪の性質が宿っている。人に力で、心をきよめることが出来ない。それでは清くなるという事は絶望なのでしょうか。 ある人はキリストは自由を与えたのだから何をしてもよいと考えます。生活を改めようとしません。それは誤りで、放縦な生活をするなら、その飼いr取りをすることになります。
ある人々は、清くなければいけない。そこで言葉、行いについて考えます。そして行為を変えようとします。しかし心に罪の性質がありますので、そこには自由がありません。出来ない事を知ると言われれば、だんだんキリストから離れていきます。 そうでなければ、自分の心に汚れがあるのに、外側のかたちを作って行くなら、偽善者になります。 聖なる道はそういう道ではありません。
きよさは神の命令であるとともに、清くして下さるよという、恵みであり、約束です。
神様は救いの恵みを与えて下さいます。それによって私達は赦され、神の子となり、永遠の命を持ちました。
さらに神はあがなわれた人たちの心をきよめると約束しています。それは人間の努力によって得るのでなく。恵みです。
日本宣教会では、救いの恵みを説くだけでなく。きよめの恵みを説いてきました。
神が心をきよめて下さるという恵みです。
キリストを信じた人の心に、清くなければいけない、清さを求める願望があります。けれどもクリスチャン生活をしていると、清くない自分の姿に気が付いてきます。こんな心得待って、クリスチャンと言ってよいのだろうか。 聖書が足得ていることを行うことが出来ない。そればかりか、神に従いたくない自分が心の中に生きています。 救われた時にはあんなに感動して熱心だったのに、信仰の火が消えかかり、なんとなく信仰生活を送っているように見える。神か自分かというと、信仰は歩けれど、自分が生きています。 ある姉妹が、自分はハンクリでしたと証ししていましたが、神と世との両方を愛していて、確信のある信仰生活を送ることが出来ません。 自分できよい信仰生活を造ることは出来ませんが、神は私たちの心をきよめて下さいます。そして聖霊の満たしを与えて下さいます。 イエス様が十字架の上で、血を流されたのは私たちの心をきよめるためでした。自分の心に汚れがあることに気が付き、そしてすべてを首にささげて、キリストの血が私の心をきよめて下さると信じるなら、主は私達をきよめて下さいます。
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