「律法からの解放」

牧師 新澤昭彦師

聖書箇所 ローマ7:6-25 


 21節に「私は、善をしたいと願っているのですが、その私に悪が宿っているという原理を見いだすのです。」と記されています。これは真実に生きようとする人々が自分の問題として、考えさせられる御言葉ではないでしょうか。


 Ⅰ 心のうちに住む罪  

私達はイエス・キリストを信じることによって、救われ、神の子になりました。誰でもキリストのうちにあるなら、新しく造られたものです。神様に喜ばれるクリスチャンになりたい、と願うようになりました。救われたその日から、生活が変わりました。  

聖書を読み、説教を聞き、祈り、信仰の歩みをしていく時、神の光が心の中を照らし、心の中にあるクリステャンらしくない自分があることに気が付いてきます。  

ローマ6:15-17に「私には、自分のしていることがわかりません。私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行なっているからです。

・・・ですから、それを行なっているのは、もはや私ではなく、私のうちに住みついている罪なのです。」と記されています。救われて神の子になりました。神に喜ばれる、生き方をしたいという願いがあります。けれども、私の内に、神に従いたくない、また悪に傾いていく傾向性があります。  

私の中に、相反する二つの自分があります。聖書が教えているように愛の中に生きていきたいと願っている自分がいます。しかし同じ自分の中に、それと相反するように、神に従うのではなく、自分の考えを通したい自分、そして愛に生きる事ができない自分がいるのです。神のみ心にかなった生き方が出来ない自分があるのは、私の魂の中にある「罪」です。そのために、「善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することが出来ません。  

聖書は「もはや私ではなく、私のうちに住みついている罪なのです。」といっています。心の一番奥底に住む罪、汚れが出てくる原因としての罪、これが魂の中にあります。心の中に、神に背く自分があることに気が付き、悩み、葛藤を覚えます。心の中にある罪の性質は、あなただけが悩んでいるのでなく、すべての人が抱いている問題です。  

聖書によるならば、人類の祖先はアダムです。神は神のかたちに似せて人を造りました。アダムは完全な人で、理性・判断力は優れ、感情を正しくコントロールし、御心にかなった生活をする人でした。しかしある時、アダムとエバは、神様が禁止していたこの実を食べました。  

神が、善悪を知る木の実をエデンの園に置かれたのは、アダムが神を愛し、神に従う日とであることを知るためでした。神の愛、神の主権に背いて、神に従わないことが罪です。アダムとエバは、神に背いて罪を犯しました。  

アダムは罪を犯したために、罪の性質を持つものとなりました。そしてアダムの子孫である人類は、罪の性質を持つものとなりました。遺伝的に誰でも生まれつき、原罪を言われている罪の性質を持って生まれます。神に喜ばれる生活をしたいと願っているのに、自分を通そう、神に背こうとする自分がいて、心の葛藤を覚えるのはそのためです。 


Ⅱ 律法の働き  

永遠の神の都に通じる道は聖です。神の都を目指して、きよい道をどうしたら歩むことが出来るのでしょうか。パウロは、昔、律法学者でした。彼は律法を行うことによって、神の国への道を歩むことが出来ると考えていました。しかし彼は律法を知れば知るほど、自分は、罪ある人間であることが分かり苦しんでいました。  

律法は神が人類に与えた戒めです。神は神の民としよう、祝福しようと契約として律法を与えました。律法が教えている事は正しいです。それは人が守らなければならない戒めです。しかし「律法が来たときに、罪は生きました」。自分は罪を犯した時が付きます。  

律法は祝福された人生への教えであるはずなのに、律法によって、罪があることに気付き、永遠の命でなく、さばきと永遠への死が宣告されます。 律法を守って正しい生活をしようといたします。しかし律法によって悪しき心があるという現実を発見し ます。  

律法はこれをしなければならない、これをしてはいけないという戒めです。律法を守るなら、祝福が約束されています。しかし律法によってかえって罪の意識が生じ、神のみ前にいかに罪深いかが鮮明になりました。真の命を与えるはずの律法が、死を宣告することになります。律法は心の中にある罪の性質に光を与え、罪の性質があることに気が付かせてくれました。この罪の性質こそ、私達から確信、喜び、平安、希望のある人生を奪う原因です。


 Ⅲ 命の御霊の法則  

罪の性質を持ちながら、自分の力で、律法の戒めを守る事によって、神の都への道を歩くのではありません。律法によって生きているのでなく、十字架にかかり死んで、甦られたキリストによって生かされるのです。  

律法の教えは正しいです。「心を尽くし、思いを尽くし、精神を尽くし、力を尽くして主なる神を愛しなさい。」「自分を愛するようにあなたの隣人を愛しなさい。」という戒めは変わりません。神の教えに生きる事ができなかったのは、私達のうちにある罪でした。律法の戒めの条文ではなく、御霊によって生かされ、御霊によって主に仕えているのです。キリストが私のうちに生きて下さり、御霊によって歩むことが出来ます。私たちの内なる人が、肉によって生きる私から、真の命に生かされ、御霊によって生きる私に変えられます。その魂の中に神の愛が注がれ、愛に生きる者と変わります。 

キリストは神でしたが、人となられ、降誕され、人として歩まれました。キリストはその体をもって、十字架にかかって贖いを成し遂げ、死なれました。そして三日目によみがえりました。信仰によって、キリストと一つになるならば、キリストが十字架にかかられ、死なれた時、キリストを信じる私たちの古き人はキリスト共に十字架に着けられ、死にました。そしてキリストが甦られたように、私達はキリストが私たちのうちに生きて下さり、キリストにあって新しい歩みをする者になります。私達は律法に生きているのでなく、律法に死に、キリストによって生きています。こうして実を結ぶものとなりました。  

「肉にあった時には」、「肉にあった時」とは、霊的な真の命に生かされていない、生まれつきのままの人です。イエス様を信じていない。キリストが私の心の中にいないとき、私が日々の生活の中で結んでいた時、死のために実を結んでいました。私の口の言葉、私の行動、生活は、恵みによって結ぶ実ではありませんでした。その罪の性質が、信じた後にも私達の心の中にありました。  

しかし、今は、私たちは自分を捕えていた律法に対して死んだので、それから解放され、その結果、古い文字にはよらず、新しい御霊によって仕えているのです。御霊が与えられ、御霊によって生かされ、そして御霊によって神に仕えているのです。私達の古き人がイエス様と共に死に、そして私のうちにキリストが住んで下さるなら、私たちのうちに愛が満たされます。そして愛は律法が教えていることを満たしていくのです。  新しい御霊によって主に仕え、多くの実を結ぶものとなりましょう。 

【公式】西調布キリスト教会

この教会は、メソジスト系の聖書信仰に基づくプロテスタントの教会です。 聖書から、神の愛のメッセージが語られています。 東京都調布市上石原2-26-13( 京王線西調布駅より徒歩3分) ☎042-485-1351

0コメント

  • 1000 / 1000