牧師 新澤昭彦師
聖書箇所 詩篇51:1-9
Ⅰ 神と私の関係
詩篇51篇はダビデによって書かれました。彼は神によってイスラエルの王になり、神に信頼して国を治めた王でした。詩篇51篇の原文では、「私」が38回、「あなた」が47回出てくるそうです。
新改訳聖書では、「私」が32回、「あなた」が18回、「神」が6回、出てきます。
「あなた」は神を指していますので、32回が私で、24回が神を指しています。
ここに心の奥底でダビデの神との関係を求めているダビデの信仰が現れています。ダビデは神なしには生きられないほど、神に信頼した王でした。
私たちは神様との関係、人との関係の中に生きています。それを図表にして見ますと、中心には、私と言う自己があります。そして縦軸と横軸の関係として、縦軸では神と私、横軸では対人的な関係があります。
神との関係と対人関係を愛で結んで、健全な人生を生きる事ができます。とりわけ、縦軸、神と私の関係が健全な人生を過ごすために重要と考えられます。布は縦糸と横糸によって、組み表されていますが、丈夫な布を織るために、縦糸が強くなければなりません。人間の基本的関係は神との正しい関係です。神との正しい関係、そして深い関係が、人を確信のある人生に導き、心に喜び、平安をもたらし、希望を与えます。また神によって愛が心に注がれ、神と人を愛する豊かな人生を過ごすことができるのです。
神との正しい関係はどうして築くことができるのでしょうか。聖書は、「あなた方の神、主である私は聖であるから、あなたがたも聖なる者とならなければならない。」と書いてあります。その神と私を結ぶパイプは聖であって、聖くなければ神に近づくことができません。イエス様は、「心の清い人は幸いです。その人は神を見るからです。」と言われました。きよい心をもって、神を知り、神と交わることが出来るのです。
Ⅱ 心の聖潔
ダビデはイスラエルの優れた王でした。彼は苦難を経て、王になりました。しかし国は安定し、ダビデが戦場へ行って指揮をとらなくても、有能な将軍達によって、戦いに勝利をする事ができるまでになっていました。
将軍ヨアブに指揮をされ、アモン人と戦っていました。ダビデはエルサレムに留まり、王宮の屋上に行って、休息を取っていました。その時、谷のほうで、水浴している女性の姿が目に入りました。その女性はダビデの部下ウリヤ将軍の妻バテシバでした。彼女を見て、ダビデは激しい誘惑を感じました。ダビデはバテシバを王宮に召し、姦淫の罪を犯しました。旧約の律法によるならば、姦淫罪は石打刑が定められて恐ろしい罪です。まもなく、バテシバのもとから使いが来て、「わたしはみごもりました。」と伝えられました。ダビデは驚き、悩みました。そして、罪を隠そうとしました。
ダビデは戦場からウリヤを呼び寄せました。そして自分の罪を隠す工作をしました。その工作に失敗し、彼はウリヤを戦場の最前線に送り、ウリヤが敵の手に殺されるように策略しました。ウリヤは勇士でしたが、敵に囲まれ、ついに戦死しました。ダビデは姦淫の罪を隠すために、姦淫の罪だけでなく、殺人と言うさらに大きな罪を犯してしまいました。
ダビデの罪は誰にも知られませんでした。しかし神は見ておられます。罪は、神との関係を切断します。ダビデはもがき、苦しみました。神は預言者ナタンをダビデのもとに遣わしました。ナタンはダビデ王の罪を指摘しました。ダビデは心砕かれ、悔い改め、神の赦しを求めました。神はダビデの罪を赦されました。その赦しの喜びを詩篇32篇で歌っています。
ダビデは罪を赦していただきましたが、自分の心に汚れ、罪の性質があることを知りました。神に赦されても、心の中に罪の性質が残っていたなら、また再び罪を犯すかもしれません。汚れた心をもったまま、神に近づくことは出来ません。彼は心をきよめて下さい、と切に祈りました。
Ⅲ きよめて下さる主
ダビデは「ヒソプをもって私の罪を除いてきよめてください。そうすれば、私はきよくなりましょう。」(7節)ときよめを求めて祈りました。彼の切なる願いは、心がきよめられ、神との正しい関係を保つことでした。これは、単に幸せを富や名誉や美しさの中に求めるのでなく、人生を真剣に考え、心を見つめる人々の切実な願いではないでしょうか。
清い心を持ちたい、けれども人の決心や努力によっては、心を清くすることが出来ません。私達の心を変え、きよめてくださる方は神様です。 「ヒソプ」は、この茎が束ねられ、きよめの儀式の用いられました。束ねたヒソプを子羊の血に浸し、そしてふりかけてきよめの儀式を行ないます。ダビデがヒソプをもってと言った時、そのきよめの儀式が背景にあります。
血は命を表しています。罪がないものが命を犠牲にして、その代価によって、心がきよめられるという事をきよめの儀式は表しているのです。 小羊の血が流されたことは、やがて、イエス・キリストが人々の心をきよめるために、十字架にかかり血を流すことを意味しています。
最後の晩餐の時、主イエスは聖餐式を制定されました(ルカ22:19-20)。 聖餐式の時に配られるパンは、キリストが罪を贖うために十字架にかかり体が裂かれたことを意味して負います。葡萄液は十字架で流された血潮です。その血は新しい契約、神が人々の心をきよめるという契約です。キリストが人類をきよめるために十字架にかかって、血潮を流されました。 主イエスは十字架で血を流されました。その犠牲によって神は私達の心をきよめて下さいます(第一ヨハネ1:7)。
神との正しい関係を保ち、真実に神の前に生きようとしている時に、神の光が心を照らし、心の中に罪の性質がある事に気が付き、葛藤を覚えます。それは神が穴とをきよめて、神との正しい関係に生かそうとしているからです。むしろ、罪の性質があることに気が付き、葛藤を覚えて生きるのがクリスチャンではなく、神が約束している契約は、心のきよめです。
神は私達の祈りに応えて、心をきよめて下さいます。すべてを神にささげ、キリストの血潮がきよめると信じて、きよめの信仰に立って下さい。
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