牧師 新澤昭彦師
聖書箇所 コロサイ人への手紙1:18-23
Ⅰ 神との和解
20-22節に3回、「和解させてくださった」と書いてあります。和解は、二つのものを一つにするという意味があります。甲と乙の間に、隔てがあって、一つに交わる事が出来なかった。その隔てが除かれ、一つになる事です。
神は世界を創造され、それを治めています。神は愛であり、いつくしみ深く、恵み豊かな方です。
その神が今日まで私たちを愛し、支え、守ってくださいました。その神様と共に生きる中に本当の幸せがあります。神と共に生きる人生に、安心、平安、喜び、確信があります。
21節に「あなたがたも、かつては」とありますが、主イエスを信じる以前、私達は「神を離れ、心において敵となって、悪い行ないの中に」ありました。そのころは、神様を信じないで、自分の考えを優先していて、神の光の中に生きようとはしませんでした。振り返ってみますと、高慢であり、自己中心であり、不信仰の人生でした。神を離れ、暗闇の中に歩んでいたのはかつての事で、「今」(22節)はキリストを信じ、神と共に生きる者となりました。
神と私達を隔てていたのは罪です。「御子の肉のからだにおいて、しかもその死によって、」とありますように、主イエスの十字架の死により、罪は赦され、神との隔てが除かれて、神との和解を受けました。
Ⅱ 和解の目的
神から魂が離れている時、魂には、渇き、虚しさ、不安、孤独感がありました。しかし、神との和解が与えられ、神の家族に一員となり、神と共に歩むようになって、魂には、平安と喜びと確信と希望を持つようになりました。神との和解を受けた私達は、聖く、傷なく、非難されるところのない者(22節)として神の前に立つものとしていただきました。
地上では、神の前に恐れなく立ち、神との交わりをもって、生きる。やがて地上生涯が終わり、神の前に、聖く、傷なく、非難されるところのない者として、立たせていただける、これ以上の幸せはありません。神から離れたなら、どんなに大金を握っても、高い地位についても、名声を得たとしても、本当の幸せをつかむことは出来ません。犯罪を犯して、大金を握っても、幸せではありません。奪い取ったお金を遊興に使い、傲慢にふるまっても、それは醜いみじめな人生です。罪は、神から人を離し、魂の喜び、平安、奪います。大きくても、小さくても、罪は光である神を避け、暗闇に身を隠そうとします。神の前に生きることが出来ない、心に暗闇が忍び寄り、平安がない、確信のある生き方をする事が出来ません。
正しい事をしているなら、逃げることはありません。人の前に出て、明るく、楽しく生きることが出来ます。私達が、神との和解を受けたのは、私たちを「聖く、傷なく、非難されるところのない者として御前に立たせてくださるためです。何故ならば、そこの本当の幸福があるからです。
生まれながらの人間は汚れた心を持っていて、自分を変えようとしても心を変える事が出来ません。人生を振り返ると、様々な罪、過ち、不正、人の利益を損なうような失敗の数々があります。それが心の傷として残っていて、記憶に甦り、心を苦しめる事があります。神に責められ、良心の呵責を持っているなら喜びをもって、生きる事が出来ません。それは不幸な事です。
けれども、キリストの十字架の贖罪は、完全です。十字架の贖いによって、罪を完全に、赦して下さいました。キリストの十字架によって、罪は赦され、そして神との和解がなされました。それは「聖く、傷なく、非難されるところのない者として御前に立たせてくださるためです」。過去の罪、過て、失敗は、神に赦され、神は私達を非難していません。もし、誰にも言えない秘密があって、それが、心の傷となって、心を苦しめている事があるかもしれません。しかし十字架によって、過去の罪、失敗、過ちは赦され除かれました。和解が与えられたのは非難されない者として、御前に立たせて下さるためです。ですから、十字架を見上げて、確信をもって神に近づきましょう。
Ⅲ 信仰による確立
私達が、神に近づき、神の前に立つことが出来るのは、イエス様の十字架による贖罪の故です。そしてその恵みを受けるのは信仰によります。
信仰によって赦され、信仰によって、神との和解が与えられました。神に近づき、そして神の前に立つ、神と共に生きることが出来るのは、十字架にかかられた、イエス・キリストを信じる信仰によってです。ですから、「しっかりとした土台の上に堅く立って、すでに聞いた福音の望みからはずれることなく、信仰に踏みとどまりましょう。」(23節)信仰によって、私達は神と共に歩み、そして本当に幸いな人生を生きる事が出来ます。
人生の最後に死があり、そして、終末には、最後の審判があります。その時はすべての人が神の前に立たされます。私が神の前に立つ時に、聖なるもの、非難されるところのないものとしてたつ事が出来るだろうか。
かつては、暗闇の圧制の中にいました。しかしイエス・キリストを救い主として心の中に迎え入れました。今は、罪から贖われ、御子イエス様の死によって、ご自分と和解させてくださいました。ですから、神の御前に立つ時に、私の努力や行いの故ではなく、イエス様の贖い、赦しと和解によって、静なる者、傷のない者、非難されるところのない者として立つ事が出来ます。
人生は限りがあります。最近は寿命が伸びています。しかしどんなに長生きしても、いつかは「ここに上れ」という神の声を聞く時が来ます。長く生きるほど、その声を聞く時が近くなります。
刻々と、残されている人生の方がはるかに短くなり、神の前に立つ日が近くなっています。神の前に立つときが来る、これは厳粛な事です。人間の行いや、努力によっては誰も神の前に立つ事が出来ません。しかしイエス様はあなたを贖って下さり、和解させて下さいました。
「それはあなたがたを、聖く、傷なく、非難されるところのない者として御前に立たせてくださるためでした」
地上生涯が終わり、神の前に立つ日が来る事を恐れないで下さい。主があなたを贖い、神との和解を与えて下さったからです。信仰に堅く立ち、そして、福音の望みからはずれる事なく、信仰に踏みつづまり続けていましょう。
0コメント