「地の塩・世の光として」

牧師 新澤昭彦師

マタイ5:13-16 


 Ⅰ 地の塩として  

主イエスは「あなた方は地の塩です。」とおっしゃいました。クリスチャンは地上で塩としての役目を持っています。  

第一に、塩には味付けの役目があります。塩味をきかせることによりおいしくなる料理は沢山あります。もし料理から一切の塩味を抜いたなら、料理は味気無いものになるでしょう。  

クリスチャンの品性の特色は愛です。そこから親切・柔和・謙遜・誠実などの美しい品性が生まれて参ります。そしてクリスチャンは心に喜び・平安をもっています。家庭に、職場に、学校に、少数でもクリスチャンがいる時、そこは楽しく、明るく、祝福きれた場所となります。 

第二に、塩は腐敗を止める役目をもっています。主イエスの時代、冷蔵俸も冷湊庫もありませんでした。食品の腐敗を防止する手段は沢山の塩を用いることでした。クリスチャンは地の塩として社会の腐敗を止める役目があります。クリスチャンが禁煙運動・禁酒運動などの社会活動をして社会の道徳を守るために運動を起こしたこともあります。しかしそういった運動ではなく、聖霊の助けによっ伝道がなされ、リバイバルが起きる時、人々の生活は変わり、道徳水準は浄化されました。一人の真実なクリスチャンの存在が周囲に与える影響は小さくありません。又クリスチャンが多くなるとき、社会の道徳を正していく力となります。  

第三に、塩には料理の味などを和らげる役目があります。料理にしはしは隠し味が使われます。少量の塩を用いることによって他の味を生かし、調和をもたらします。誠実で謙遜なクリスチャンの存在は、自らを隠し、人と人との調和をちたらします。             

私達は主イエスの恵み、又主との交わりの中に、地の塩の役目を果たすクリスチャンになることができます。その為に  第一に、救いと聖潔の経験を明白にし、主イエスとの関係を正しくする事です。

第二に、主イエスに近づく事です。日々信仰に生き、主の臨在の中に生活いたしましょう。  

第三に、囲鞍や迫害があっても、しっかり信仰を告白して生きる事です。


 Ⅱ 世界の光  

イエス様が言われている光は神を明らかにする光、また神の恵みを明らかにする光です。神を知り、神と共に生きる中に喜び、平安、希望を持ち、確信のある人生を過ごすことが出来ます。神から離れたなら、光がありません。そこには空しさ、寂しさ、不安があります。フランスの思想家パスカルは彼の著書「パンセ」の中で、「神を知ることなしに、幸いがないことは確かである。神に近づくにつれて幸福になることも、神を確実に知ることが幸福の究極だと言うことも確かである。また神から遠ざかるにつれて不幸になることも、先に述べたことの逆の確実さが不幸の究極だと言うことも確かである。」と言っています。本当の幸いは神を知り、そして神と共に歩む中にあります。  

ヨハネ1章では、「すべての人を照らすそのまことの光が来ようとしていた。この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。この方はご自分の国に来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。」と書いてあります。キリストは、神を知らせ、福音を知らせるために、光としてこの世界に来られました。しかし人々はイエス様を信じませんでした。そのためにイエス様は神を現されたのに、人々は神を見ることも、神と和解し、神と共に生きることもできませんでした。  

戦後、65年以上が過ぎ、思想の流れは伝統と文化の名のもとに、仏教、神道が頭をもたげています。異教化が進む中で、神が世界を造られたのに、神が世界を守り、そして私達を今日まで守り、導いてくださいましたのに、神が私達を愛し、祝福しようとしていますのに、人々はもっと神を知ろうとしません。神に近づこうとしません。神を崇め、礼拝しようとしません。思想の流れは、潮のように人々を飲み込み、日本の伝統と文化、とても美しく聞こえる言葉の中で、日本の異教化が潮のように流れていて、人々を神から引き離しいている。それが今の時代です。今は暗い時代です。

そしてこの時代に神の光を輝かせ、本当に神はいらっしゃり生きていること、そして私達を愛され、祝福しようとしていることを知らせなければなりません。  

神を見ることが出来ません。しかし神は見える形でご自身を現してきました。

昔、神は神を啓示するために、一つの民族を選らばれました。それがイスラエルです。

神は彼等に律法を与え、そして歴史の中に働かれ、神がどのような方かを示しました。

また預言者を遣わし、預言者を通して語られました。  

さらに神は御子イエス様を世界に遣わされました。イエス様はすべての人を照らすまことの光でした。人々はイエス様を見て、真の神を見ることが出来ました。イエス様は十字架にかかり、贖いを成し遂げ、死にました。イエス様は復活して、天に帰られました。今イエス様の姿を私達は見ることが出来ません。それでは何によって恵み深い神を人々は知ることが出来るのでしょうか。神を知ることが出来るのは、教会によってです。教会は神の光を社会の中で輝かせる世の光です。  

教会は単なる十字架のついている建物ではありません。教会はキリストの体です。イエス様はかしらで、かしらであるイエス様につながっているからだが教会です。教会とイエス様は一つに結びついています。イエス様は見えません。しかし教会の中に、イエス様は聖霊によって働いています。神は見えませんが、教会を通して働かれる神の恵みによって、人々は神を知り。神の恵みを知ることが出来るのです。イエス様は、「あなたがたは世界の光です。」といわれました。この時代に教会は世の光としての使命を神から頂いています。また私達は世の光として、今いる所で、光を輝かせるように、使命を頂いているのです。それはどんなに大きな意味を持つことでしょう。  

山の上にある町は隠れることがありません。 夜になると、家々に光が灯され、丘の上にある町は浮かび上がって、遠くから見ることが出来ます。今の社会で、教会及びクリスチャンはそのような存在です。クリスチャンが真実に、神と人を愛して生活している。教会が愛によって結び合わされ、また隣人を愛して生きる姿は、暗い社会の中に輝く光です。その教会により、人々はまことの神がいることに気が付き、神の恵みを求めるようになります。  

「あかりをつけて、それを枡の下におく者はいない。むしろ燭台の上において、家の中のすべてのものを照させるのである」。イスラエルでは入口に、広い部屋があります。そこが居間、台所、子供部屋、書斎、寝室でした。そこに家族が一緒に生活しました。部屋の壁に燭台があります。そしてランプが燭台に置かれ、部屋全体を照らしました。そのともし火をますで覆うことをしません。そうしましたら、明かりは部屋を照らすことが出来ません。クリスチャンは世の光です。もし自分がクリスチャンであることを隠して、その光を覆っていたなら、周囲を照らすことが出来ません。燭台の上に明かりを置くように、教会は置かれている場所で福音を伝え、人々の前にキリストの光を輝かせることが大切なのです。  

イエス様は「私が世にいる間は、世の光です。」といわれました。今イエス様の姿を見ることはできません。この時代に世の光として光を輝かせるのは、イエス様を信じたクリスチャンであり、教会です。教会が恵みによって、互いに愛し合い一つになり、一人一人のクリスチャンが摂理的に置かれている場所でキリストの恵みを証しし、そして神の前に、忠実に歩み続けていくなら、そこで光として輝くことが出来るのです。  

イエス様は「あなた方の光を人々の前に輝かせなさい。」と言われました。私達の側に光る要素があるのではありません。内にいますキリストによって、内側から輝くのです。教会が世の光としてキリストの光を輝かせるならば、人々は見えない神を知り、恵みを求めてくるようになります。それが教会に求められているのではないでしょうか

【公式】西調布キリスト教会

この教会は、メソジスト系の聖書信仰に基づくプロテスタントの教会です。 聖書から、神の愛のメッセージが語られています。 東京都調布市上石原2-26-13( 京王線西調布駅より徒歩3分) ☎042-485-1351

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