牧師 新澤昭彦師
聖書箇所 コロサイ1:23-29
Ⅰ 人は何のために生きるのか=生き方の問題
私達は神に守られ、今日まで生かされてきました。命が与えられ、そして生かされている、そこには何かの意味があるはずです。ただ生きているのでなく、何のために生きているのか、人生には、目的、意味があるはずです。
神は、土のチリで人を形作り、その鼻に命の息を吹き込まれました。そのとき人は生きた者となったと聖書は教えています。これは人に肉体の命と共に、霊的命がある事を教えています。そして霊が生かされる時、人は生きた者となる事が出来ます。聖書は罪の払う報酬は死である、と教えています。
神に対する罪があるならば、霊的な命を失います。けれども主イエスは人類の罪を赦すために十字架にかかり、罪のいけにえとなって下さいました。イエス・キリストを信じるならば、罪が赦され、神との和解が与えられます。そこで新生経験、霊が生かされるという恵みをうけます。
霊魂が新生し、神と共に生きる人生には、喜び、平安があります。しかし新生の恵みは、何のために生きるのか、という質問に答えを出していません。人は幸い福を求めています。逆説になりますが、本当の幸いは自分のためではなく、神のために生きる、人のために生きる、そこに「いかに生きるか」という問いの答えがあり、幸いいな人生があります。これは生き方の問題で、神と人への愛に生きる事によって、人の人生は生かされるのです。
Ⅱ パウロの生き方について
パウロは、律法学者で、若く、有望な指導者で、律法に熱心な人でした。その熱心さのゆえに、キリスト教に対しては激しい迫害者でした。
彼はダマスコにいるクリスチャン達を捕らえるために出発しました。しかしその途中で、天から強い光が彼を照らし、倒れました。そして彼は自分が迫害している主イエスの声を聞きました。彼は自分が迫害していたイエス様が救い主である事を知り、悔い改めて、イエス様を信じました。そして彼は自分が迫害していた.キリストを伝える者となりました。
24節に、「キリストのからだのために、私の身をもって、キリストの苦しみの欠けたところを満たしているのです。」と記されています。これはイエス様の十字架が不十分だったというのではありません。イエス様は十字架の上で、「完了した」と叫ばれました。キリストの十字架の苦しみと死によって、人類を救うための贖いは完成しました。けれどもキリストが十字架の上で死なれ、贖いを成し遂げましたが、人類の救いのために福音を伝えなければなりません。だれでも、イエス様を信じるならば救われます。しかし、十字架の福音を伝えなければ、聞く事も知る事も出来ません。
神様は福音を伝える人を必要としています。「キリストの苦しみのかけた所」とは、キリストの苦しみ、十字架の言葉を伝える事、そして神の人々を救い、神との和解を与え、人々が喜びと平安をもって神と共に生きる人生に導こうとしている神の愛を伝える事です。それは、神に従う道で十字架を負う人生です。
パウロが神から受けた使命は、福音宣教でした。彼は天からの召命に応え、福音を伝え、神に従いました。彼は自分のために生きたのではなく、神のために、そして彼は彼に触れた人々のために生きました。それが彼の生き方でした。彼にとって、自分は十字架につけられ、生きる事はキリストで、神のために生きました。そして人々の永遠の幸いのために、生きました。こうして彼は、「キリストのからだのために、私の身をもって、キリストの苦しみの欠けたところを満たしているのです」。また「このキリストを宣べ伝え、知恵を尽くして、あらゆる人を戒め、あらゆる人を教えています。」「それは、すべての人を、キリストにある成人として立たせるためです」。と言っています。自分のためではなく、神のため、人のため、それが彼の生き方でした。
Ⅲ 私達の生き方
私達の人生は、パウロの場合と同じではありません。けれども、自分ではなく、神のために、人のために生きる人生は、人を生かします。それはパウロだけでなく、私達にも言える事です。
パウロは自分の事を考えたなら、別の生き方をする事が出来ました。優秀な学者で、サンヒドリンの議員であり、将来を嘱望された人でした。地位と名声、そして豊かな収入を期待する事が出来ました。しかし彼は自分が得したり、人々からの歓心を買おうとしたのでなく、神の栄光があらわされるために、人々を愛して、人の永遠の幸いのために生き続けました。
その生き方はパウロを不幸にしたのではなく、彼の人生を生かしました。私達はこの地上に生きています。神の恵みで生かされている。それは幸いいな事ですが、生かされている人生をいかに生きるか、生き方を考える事は大切ではないでしょうか。
自分がいつも生きていて、楽をしたい、豊かになりたい、得をしたい、負けたくない、あるいはひそかに他人の失敗を願ったり、と自分のために生きようとすると、幸せを求めている幸せをつかむ事が出来ません。
いかに生きるか。神のために、人々の永遠の幸いのために、生きる、それは神の愛に生きる事です。私達は、本当に愛に生きているのだろうか。夫を、妻を、子どもを、親を、友人を、そして私が接する人々を本当に愛して、その人のために生きているだろうか。
生き方を考える。神のため、人のため、愛に生きる、この事に私達の人生は生かされます。人は良い人間である事を志します。良い人でありたいとの願いが、人々から良い評判を得たい、人の目を気にして、形だけを求めて、愛を見失い、自分のために生きる危険があります。肝心な事は自分がどうみられるかではなく、愛すべき人を愛して生きる事です。パウロは、彼が触れる人々を愛して、み言葉を語り、彼らの救い、信仰の成長のために生きました。彼らの永遠の幸いのために、それが彼の生き方でした。ここにいかに生きるかという問いに対する答があります。愛がなくても成功する事があるかもしれません。しかし愛がなかったなら、いかに生きるかという問いに答えを出す事が出来ません。自分のためではなく、神のために、人のために、心から愛に生きる、愛すべき人を愛せる者とならせていただきましょう。
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