牧師 新澤昭彦師
聖書箇所 コロサイ3:1~4
Ⅰ こういうわけで
1節の「こういうわけで」とは、2章に記されている、「キリストを死者の中からよみがえらせた神の力を信じる信仰によって、キリストとともによみがえらされた。」という、信仰によって受けた恵みを指しています。
神は、心と生活における愛、聖さ、正しさを要求しています。しかし心の中にそれを妨げる罪の性質があって、神の要求されたようにではなく、人は神に背き、罪の道を歩んでまいりました。人は自分の力で罪の性質を除き、きよめる事は出来ません。キリストは十字架にかかり、死にました。キリストが十字架の上で死んだ時、私の内にある罪の性質はキリストと共に死にました。もし私達が信仰によって、キリストの死と一つになっているなら、キリストが墓から復活したように、キリストの甦りとも一つになります。それは、自我に死んで、キリストと共に生きる事、キリストが私の内に生きて下さる事です。罪と汚れ、また欲に生きる私が死んで、愛と聖と義に生きるキリストの命によって新しい歩みをする者となります。
かつては、欲望・虚栄・誇り・快楽・成功など地に属するものを求めて生活していたかもしれません。しかし今は神を見上げ、永遠を見つめて生きる者となりました。キリストによって生かされ、そして新しい命に生きる者として、「上にあるものを求めなさい」と勧められています。
Ⅱ 上にあるもの
「上にあるものを求めなさい」(1節)。クリスチャンがクリスチャン生活の原則として求めるものは、「上にあるもの」です。
「上にあるもの」とは、天を指しています。そこは神の御住まいで、神がいらっしゃる所です。
1節に、「キリストが、神の右に座を占めておられます。」と記されています。天は、栄光に満ちた神がいらっしゃり、甦られたイエス様が父なる神の右の座に座して、私達のためにとりなしをしています。そこは神の栄光に輝くところであり、きよく、一点の汚れもないところです。そこは希望と喜びと平安が満ちているところです。天にあるものを求める人は、主の御心を思いめぐらし、主に喜ばれることを求めて生きるでしょう。
地には、誉れ、物質的な繁栄、又快楽や欲望があります。それらは地上生活を楽しませるかもしれませんが、しかし魂を生かす事が出来ません。立派な家・富・地位・成功など、地上のものは目に見えます。しかし天にあるものは見えません。そこで多くの人は地上のものに価値があると考え、地に目を向けます。しかし心を潤し、永遠の喜びを与えるものは、地のものではなく、天にあるものです。地上の宝は、腐食をしたり、盗まれたり、社会情勢によって価値を失います。しかし天の宝は決して価値を失う事はありません。地にあるものを求める時、争い、妬み、憎しみが生じ、心を暗くする事があります。しかし天にあるものを求めて生きる時、聖・愛・謙遜などの美しい品性が培われ、心の中は平安・喜び・希望が支配するようになります。
神を知らない時、またキリストと共に死に、キリストと共に生き、キリストの命に生きる事をしていない時、地上のものに価値があるように考え、それを追い求めていました。しかし今、私達が求めるもの、思うものは、上にあるものです。毎日の家庭、職場、社会で、祝福された信仰生活の原則、原理は、「上にあるものを求める」ことにあります。
Ⅲ 私達のいのち
コロサイ3:4には、「私たちのいのちであるキリストが現れると、そのときあなたがたも、キリストとともに、栄光のうちに現れます。」と記されています。ここに上にあるものを求めて生きる私達の望みがあります。キリストの現れとは、主イエスの再臨を意味しています。
主イエスは、今は神の右の座で私達のために、とりなしをしていますが、再び世界にこられます。
やがて主が再臨される時、主にあって眠っている者は、主が復活されたように復活します。
「キリストが現れると、その時あなたがたも、キリストとともに、栄光のうちに現れます」。
これは再臨と、信じる者の復活です。朽ちる者、弱さのある体を持つ者ではなく、霊の体、栄光の体に変えられて復活します。地上の制限からも解放され、死も、病も、悲しみも、呪われたものが一切ない、神の国に住みます。地上の生活は瞬く間に過ぎます。しかしキリストを信じる者に与えられている希望は栄光に満ちているものです。
3節に「あなた方の命は、キリスト共に、神のうちに隠されてあるからです。」と書いてあります。隠されているという事は、本当はあるのだけれども、覆いで隠されていたり、人の目に分からない事です。ここで隠れているのは、あなたがたのいのち、即ち、イエス様を信じている私達の命です。
この命とは、ゾーエーという言葉がここで使われていますが、肉体の命ではなく、キリストを信じた時に、霊のうちに持った本当の命です。この命はキリストと共に、神のうちに隠されています。外側から見たならば、クリスチャンも、ノンクリスチャンも何も変わりがないように見えます。今は隠されています。しかし、4節には、現れます。という言葉が出てきます。隠されていたものが目に見える形で現れます。私達の命であるキリストが現れる、その時、隠れていたものが現れます。朽ちるものは朽ちないものに変えられ、弱いものは強いものに変えられ、卑しいものは栄光あるものに変えられて復活します。
その時、内にある霊の命、本当の命が現れます。私達はキリストのようになることを意味しています。第一ヨハネ3:2に「キリストが現われたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。」と記されています。今は隠されていて、隠れたものがやがて主が再臨される時、霊の命を持っている人はキリストに似た者と代えられます。
神がキリストによって与えて下さる命は、はかり知る事が出来ません。その命を持っているのですから、「上にあるものを求め、」信仰に励みましょう。
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