牧師 新澤昭彦師
聖書箇所 コロサイ人への手紙3:15
平安は、一般には無事で穏やかなことを意味しています。「キリストの平和」とはキリストによって、神様が与えて下さる心の平安の事ですが、無事で穏やかなこと以上の事です。それは、嵐の中を通る時にも、失われない心の平静さです。人生に苦難は免れませんが、どんな時にも平安で揺るがされない平静さを心の中に持っているならば、どんなに素晴らしい事でしょう。
Ⅰ キリストの平和
イエス様は、十字架にかかる前、弟子達との決別説教の中で、「 わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。」とおっしゃいました。キリストの平和とは、キリストが約束され、キリストがキリストを信じる人々に与えてくださる心の平安です。
1、イエス様の十字架の贖いを信じることにより与えられる平安。
「私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。](ローマ5:1)
心から平安を奪う最大に原因は罪です。神のきよい光で心が照らされ、罪があることが示されたならば、罪責を感じ、心の重荷となります。また罪を恐れて隠そうとしますと、追われているような不安があります。たとえ、小さな罪であっても、良心に痛みを与え、平安を奪い、心の重荷となります。
主イエスが、世界に来られたのは、罪のために神から離れている人々の魂を救うためです。主イエスは人類を罪から救う為に十字架にかかって下さいました。十字架は刑罰の場所です。もし罪があるなら、神の前で裁かれます。神は私達をさばき、罰するのでなく、キリストを十字架につけて、全ての人の罪を負わせなさいました。キリストが代わって十字架にかかり刑罰を受けられた、その代価によって赦されることを贖いといいます。十字架の贖いにより、イエス様を信じる人々は、罪が赦され、神と人との隔てが除かれます。こうして神との和解が与えられ、心の平安を持つことが出来ます。
「神との平和」は、罪が赦され、神に義とされた人々が持つ心の平安です。
2、神に信頼し、全てを神に明け渡すことにより持つ平安。
詩篇46:1-3 避け所は危険に際して、非難する場所です。神が避け所になって、あらゆる危険から、神に信頼する者達を守って下さいます。神は避け所だけでなく、神に信頼する者の力となって下さいます。避け所が消極的な神の助けとしますなら、力は積極的な神の助けということができます。そしてそこにある助けです。手を伸ばせば届くところにいる助け、呼べば応えて下さる助けです。
神は万物の創造者であり、今も全てのものを支配しています。神は全能の神であり、そして私たちの祈りを聞かれる方です。このような神が私たちの避け所、力、助けとなってくださいます。人生を神にゆだね、神に信頼して生きるときに、われらは恐れない、平安と確信が心にあります。
人間は弱いです。少しのことで動揺しやすいものです。思い煩い、悩みの中に平安をもてなくなる事があります。どうしたらよいだろうかと考え、夜、床についてもなかなか寝付けなくなることがあります。しかし神は避け所、力、悩めるときの助けです。神に信頼し、神に心を明け渡して生きるなら、心に揺るがない平安を持つことが出来るでしょう。
3、神の御旨の中に生きることによる。心の平安。マタイ11:29
くびきは、牛などの動物の首に結び、畑を耕したり、荷物を運ぶために用いる農具です。二頭の牛をくびきで結び、畑を耕す時、一頭の二倍でなく、それ以上の力を発揮します。くびきをつけることにより、牛は楽になります。
くびきをつけたとき、二頭の牛は調和を保つことが必要です。一頭が進むときにもう一頭も進む、一頭が休むとき、もう一頭も休むようにしなければなりません。そうでないと、二頭はかえって、負担を大きくしてしまいます。イエス様のくびきを負うと言うことは、イエス様と歩調を合わせて歩むことです。
イエス様に従わないで自分勝手に生きる時、平安がありません。行き詰まります。イエス様の声は聞こえません。しかし皆様が集会出席に励み、集会で御言葉を聞いています。また聖書を日々読んでいます。またお祈りをしています。そのような信仰生活をして、イエス様とともに歩んでいるならば、イエス様は良心のうちに語り続けています。良心の声を振り切って、主に背を向けていく時、平安は消え、心に喜びがなくなります。
主のくびきを負うときに、主が私の力になって下さいます。ひとりでは負うことが出来ない仕事や責任も、主イエスのくびきを負うと言う時、それが負担になっていくのでなく、主が私の力になってくださり、私ひとりでは出来ない、仕事をさせてくださり、責任を全うさせて下さいます。
このように神の御旨に従って生活する中に自由と平安があります。そして効力を最大限に発揮することが出来ます。しかし神の御旨にそわない生活をしはじめる時、心の平安が失われていきます。
Ⅱ 平和が心を支配する
「キリストの平和があなた方の心を支配するようにしなさい。」(3:15)と勧められています。
「支配する」という言葉はほかに、統治するとか、審判人である、という意味があります。
熱が出たり、からだの節々が痛く、元気がなくなると、どこか体が悪いのではと、考えます。発熱が健康を損なっているというサインであるように、心に平安がないという事が、正しい信仰の歩みに問題が生じていることのサインである事があります。平安が審判者になって、心に警鐘を鳴らしています。もし神との正しい関係から離れるならば、心に平安がなくなります。
聖日礼拝を守ること、聖書を読むこと、献金をすること、親切をすること、助けること等々、神は私達の良心に語りかけています。その声に従がわないで、自分の思いを通す時に、平安がなくなります。
いつも神が与えてくださる光に応答し、御旨の中を歩み、神との正しい関係を保つならば、心に平安があります。しかし、キリストから離れるならば、平安は消えていきます。
キリストの平和が、あなた方の心を支配するようにしなさい。この言葉を私に対する御言葉と受け止め、いつでも平安がある、揺るがない、神に祝福された信仰生活を過ごしていきましょう。
0コメント