「神を第一に」

牧師 新澤昭彦師

聖書箇所 創世記12:1-9 

 アブラハムは神の声を聞き、神に従い、妻のサライ、甥のロト、しもべ達を伴って、どこへ行くかを知らずに神が示す地に向けて出て行きました。  

アブラムは長い旅を続け、シェケムに来ました。そこで神はアブラムに現れ「わたしは、あなたの子孫にこの地を与える。」と言われました。この地とは、ヨルダン川と、地中海を挟む地で、今のイスラエルの国がある地です。そこでアブラムは祭壇を築き、神を礼拝しました。さらに彼は、そこから南下してベテルの東に移動しました、彼は、そこでも主のための祭壇を築き、主の御名を呼び求めました。アブラムは神に従い、カナンまで来ました。シュケムについた時、ベテルについた時、アブラムがしたことは祭壇を築いたことでした。祭壇を築くという事は礼拝の行為です。  

アブラムが祭壇を築いたのは、そこにいけにえとして、動物をささげて、礼拝するためでした。神を信じ、神に従ったアブラムが最も大切にしたのは、神への礼拝でした。それは、彼が神を第一にして歩んだ事を表しています。  

私達は、心に「私と信じませんか」という主の声を聞きました。そして、主イエスを信じて救われ、神との和解が与えられ、神と共に歩む者となりました。クリスチャン生活で第一しなければならない事は礼拝です。  

礼拝は、信仰者の生活の中心です。神の前に出て、そこで神を讃美し、祈りをささげ、み言葉に耳を傾けます。神を礼拝し、神と交わる中に心は恵みで満たされ、潤されます。礼拝から離れて、生活をしていますと心は枯渇いたします。どうぞ神を礼拝し、神を礼拝することを中心において、信仰生活を過ごして下さい。  

礼拝とは、言葉の意味からは、跪くとか、伏して拝むことを意味します。神を神として崇める人間の行為が礼拝です。神は天地万物を創造され、それを支配しています。人は神の慈しみ深い御手に守られ、今日まで生きてきました。更に、神は神の御子イエス様を世界に遣され、全人類の罪の贖いとして、主イエスを十字架にかけて、犠牲にされました。イエス様の十字架の犠牲によって、私達は赦され、神の子にされ、永遠の命が与えられました。神は私達に人の理解を越えた愛を表して下さいました。神の無限の力、そして計り知ることの出来ない愛を覚え、神の前に私達がすべき事は礼拝です。 

主イエスは「あなたがたが父を礼拝するのは、この山でもなく、エルサレムでもない、そういう時がきます。」と言いました。『そういう時』とはイエス様が十字架にかかり、贖いを成し遂げられる、そして信仰によって神の子達が誕生する、その神の子達によって、礼拝がささげられる事を意味しています。教会は救われた人々の集まりです。主は、教会の真中に臨在して下さり、私達の礼拝を受け入れて下さいます。  

旧約の時代には土曜日が安息日で、土曜日に神を礼拝していました。ペンテコステの日に聖霊が降り、人々は福音を聞いて、罪を悔い改め、十字架にかかり、甦ったイエス・キリストを信じ、新約の教会が誕生しました。その時から、主の復活を記念して、日曜日に礼拝が持たれるようになりました。  

旧約時代、人々は罪のためのいけにえと全焼のいけにえをささげて礼拝しました。罪のためのいけにえをささげたのは、罪の赦し、心のきよめを受けて、神に近づくためです。全焼のいけにえは全き献身を意味しています。ローマ12:1に、「あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。」と記されています。全てを神にささげる、それは礼拝でなすべき大切な行為です。  

礼拝では、賛美と祈り、信仰告白、メッセージを聞き、そして神にすべてをささげ、祝祷を受けます。礼拝が終わり、それぞれが家路に着きますが、私達は、主によって世の遣わされ、遣わされた所で、神と共に生きる。そして、キリストのあかし人として生きます。 詩篇84篇5節に「なんと幸いなことでしょう。その力が、あなたにあり、その心の中にシオンへの大路のある人は。」と記されています。  

シオンは、エルサレムの北側にある丘で、この丘の上に神殿が建てられました。シオンへの大路は、神様を礼拝するために行く巡礼をさしています。心の中にシオンへの大路がある人、それは神を心から愛し、神との交わり・神を礼拝することを慕う心を持った人です。  

主を信じ、日曜日を聖別し、礼拝を慕う心を持った人は何と幸いでしょう。そのような敬虔なクリスチャン生活をしていても、様々な苦難や困難に遭遇する事があるでしょう。その苦難や困難を乗り越えるのは、私達の力ではなく、その力があなたにあり、とありますように神の力によって、困難を乗り越える事が出来ます。詩篇84:6に「 彼らは涙の谷を過ぎるときも、そこを泉のわく所とします。初めの雨もまたそこを祝福でおおいます。」と記されています。涙の谷を過ぎる事があるかもしれません。しかし神を力の源泉とし、礼拝を慕う心があるならば、涙の谷も、泉の湧く所と代わります。試練の中で深い神の慰めを経験し、心から喜び、平安、希望が湧いてくるでしょう。  

「はじめの雨もまた、そこを祝福で覆います」。始めの雨は、秋の雨です。それは麦等の種を巻く時、大地を潤し、春の収穫のために必要な収穫の祝福をもたらす雨です。苦難・困難・試練の中を通る事があるかもしれません。しかし礼拝を慕う心があるならば全ての経験は祝福と変わります。クリスチャン生活は、一点にとどまっていません。天国に帰るまで、成長し続けます。  

礼拝を中心として生活することは、神を第一として生きることでもあります。信仰生活が神を中心としたものでしょうか。あるいは自分を中心としたものでしょうか。礼拝に出席するよりも、自分を楽しませるために時間を使いましょうか。自分を中心として生きた時に、その時は楽しいかもしれませんが、何も残りません。そればかりか、礼拝をないがしろにして生きる時、良くない思いが生まれ、御霊の実を結ぶ事が出来ません。  

イエス様は、命を救おうと思うものは、それを失い、私のために命を失うものは、それを見出すのです、と言いました。命を救うと言う事は自分を中心として生きる事です。欲や願望を自分中心に抱き、自分の損得を求めます。その人は願望を果たすかもしれませんが、自分中心に生きた結果、一番大切なものを失っているのです。  

私のために命を失うと言う事は、自分中心の行き方ではなく、イエス様のために生きる生き方です。それは神を第一にして、礼拝につながる生き方です。その人は命を失うのでなく、命を見出す、本当の自分の人生を見出します。  神を第一として、礼拝を慕い、守るクリスチャンとなりましょう。

【公式】西調布キリスト教会

この教会は、メソジスト系の聖書信仰に基づくプロテスタントの教会です。 聖書から、神の愛のメッセージが語られています。 東京都調布市上石原2-26-13( 京王線西調布駅より徒歩3分) ☎042-485-1351

0コメント

  • 1000 / 1000