牧師 新澤昭彦師
聖書箇所 創世記12:10-13:4
アブラムはハランから長い旅を続けて、カナンの地のシェケムまで来ました。そこで神様はアブラムに現れ「わたしは、あなたの子孫にこの地を与える。」と言われました。この地とは、ヨルダン川と、地中海を挟む土地で、今のイスラエルの国がある地です。そこでアブラムは祭壇を築き、神を礼拝しました。さらに彼は、そこから南下してベテルの東にある山の方に移動しました、そこに天幕を張って住みました。彼は、そこにも主のための祭壇を築き、主の御名を呼び求めた。礼拝をささげました。彼はそこからなお南下して、ネゲブの方へと旅を続けました。
Ⅰ アブラムの失敗
アブラムはネゲブまで来ました。ネゲブという言葉は、「乾燥した」という意味があります。イスラエルの気候は、12-2月が雨季で、5-9月は雨が降りません。雨期に雨がありませんと飢饉になります。アブラムが住んだ、ネゲブに雨期になっても雨が降らず、激しい飢饉が起こりました。飢饉のために、農作餅は収穫できません。アブラムはたくさんの牛、ヒツジ、ヤギを所有していました。彼はそれらを養うために、エジプトに下って行きました。
彼がエジプトに近づいてきた時、心配がありました。それは、妻サライの美しさです。アブラムは妻のサライに「聞いてほしい。私には、あなたが見目麗しい女だということがよく分かっている。エジプト人があなたを見るようになると、『この女は彼の妻だ』と言って、私を殺し、あなたを生かしておくだろう。私の妹だと言ってほしい。そうすれば、あなたのゆえに事がうまく運び、あなたのおかげで私は生き延びられるだろう。」と言いました。彼は自分の身を守るために、うそをつきました。
アブラムが心配したとおり、エジプトに来た時、エジプト人はサライを見て、非常に美しいと感じました。そのうわさは広がり、ファラオの高官たちがサライの美しさを見て、ファラオに彼女を薦めました。ファラオはサライを宮廷に召し入れ、妻にしようと考えました。
ファラオは、アブラムを厚遇しました。サライのゆえに物事がうまく運び、アブラムは、羊の群れ、牛の群れ、ろば、それに男奴隷と女奴隷、雌ろば、らくだを多く所有するようになりました。しかしアブラムは大変な過ちを犯していました。サライを妹と言って、偽ったばかりではありません。
神はアブラムに、「地のすべての部族は、あなたによって祝福される。」と約束されました。この約束は、キリストによって成就されます。キリストはアブラハムの子孫から生まれます。アブラムがしたことは、アブラハムの末から救い主が生まれる、そして人類は救い主によって救われ、永遠の命を持つという神の計画を台無しにする行為をしていました。アブラムは所有を増やし豊かになったかもしれません。しかしアブラムは取り返しがつかない過ちをするところでした。
しかし、神は、この絶体絶命の危機の中で、干渉しました。アブラムの妻サライのことで、神はファラオとその宮廷を大きなわざわいで打たれました。ファラオはサライがアブラムの妹でなく、妻であることに気が付き、サライを宮廷に召したことの誤りに気が付きました。ファラオは、サライを妻として、神に大きな罪を犯すところでした。アブラムを呼び寄せて「あなたは私に何ということをしたのか。彼女があなたの妻であることを、なぜ私に告げなかったのか。なぜ、『私の妹です』と言ったのか。だから、私は彼女を自分の妻として召し入れたのだ。さあ今、あなたの妻を連れて、立ち去るがよい。」と言いました。ファラオの権力から、アブラムが守られたことは、神の干渉があったからで、それは神の恵みでした。けれどもアブラハムが犯した過ち、失敗ははかり知る事が出来ません。
Ⅱ 失敗の原因
神の御声を聞き神に従う事 アブラムはどうしてこのような失敗をしてしまったのでしょうか。
アブラムの行動をさかのぼると、ネゲブで飢饉にあった時、エジプトに降りました。神が約束された地はカナンで、エジプトではありません。聖書にはしばしば、神を離れ、汚れているという意味で、世として、エジプトが表現されます。ネゲブは、神が導かれた地ではありませんでした。アブラムは神の前に静まり、神の御心を確信して、ネゲブに進んだのではなく、自分の考え、判断で行動したのではないかと思います。それはわずかな、誤りかもしれません。しかし、エジプトで、信仰に立たないで、恐れを抱き、サライを妹と偽ることをしました。大きな誤りも、初めから大きな誤りがあったのではなく、わずかの誤りが、人生の中で糸のようにつながり、大きな誤りとなっていくという事が人生には起こります。わずかに道をそれることが、取り返しのつかない失敗になる事があります。いつも私達は祈り、神のみ心を確信しながら歩むという事が必要ではないでしょうか。
Ⅲ 失敗からの回復
アブラムは大変な失敗をしました。その後、アブラムに失敗がなかったわけではありません。けれども彼の人生を見ますと、失敗から回復し、神と共に歩み、神から祝福を受けています。人生には失敗や、つまずきがあります。しかしそこで、だめだとくじけてしまうのではなく、神を見上げしょう。 どのようにアブラムは失敗から立ち上がる事が出来たのでしょうか。そこで、アブラムはエジプトを出て、ネゲブに上り、彼はネゲブからベテルまで旅を続けて、最初に天幕を張った場所まで来ました。アブラムは来た道を戻りました。4節には、「そこは、彼が以前に築いた祭壇の場所であった。アブラムはそこで主の御名を呼び求めた。」と記されています。
彼は誤りから、来た道を歩みなおし反省し、悔い改め、そして、神と共に歩み、祭壇を築いて礼拝をささげた場所に戻りました。
人は失敗なく生きることはむつかしいです。失敗したり、躓いたり、倒れることがあるかもしれません。しかしもう駄目なのでなく、いつでも回復の道は備えられています。その道は、きた道を戻り、そして、神と共に歩んでいた。その場所に戻る事です。
私達が戻る所は、主の十字架の御元です。そこで私達は罪を悔い改め、主のために十字架にかかって下さった、主を信じて、赦し、永遠の命を受けました。私のために命を捨てて下さったキリストの愛を知り、生涯主を愛し、神に従っていこうと決意しました。そこが私達の信仰の原点です。失敗をしない方が良いです。けれども失敗したならば、どこで道を踏み外したのか反省し、そして私達の信仰の原点である十字架の御元に帰りましょう。
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