創世記17:9-14
Ⅰ 割礼
創世記17章には、神とアブラムとの契約が記されています。通常、契約は甲と乙の両者が条件を同意し、サインして成立します。
神は、「わたしとあなたとの間に契約を、立てる。」と、と言われました。
神の約束は、アブラムは多くの国民の父となる事でした。彼は子孫に富み、さらに、カナンの全土を、永遠の所有として受ける。という約束でした。
一方、神はアブラハムに「あなたは、わたしの契約を守らなければならない。」と言われました。その契約は、男子はみな割礼を受けなければならないという命令です。割礼を受けることによって、神との契約は成り立ち、神は、あなたの神、あなたの後の子孫の神となる。と約束されました。すなわち、割礼を受けることによって、神の契約の民となります。
割礼とは、切り取るという意味で、イスラエルの男子に対してなされ、包皮を切り取る儀式です。割礼は生後八日目の男子に施されます。割礼は、イスラエル中の男子はみな受けなければなりませんでした。もし割礼を受けないならば、その者は、神の契約の民から断ち切られなければなりません。
旧約聖書の教えでは、神の民となるために、割礼が命じられています。けれども、パウロは割礼を受けるなら十字架の福音に敵対する事だと割礼に反対しました。新約聖書の契約では、神の民となるために必要な事は割礼を受ける事ではなく、十字架にかかり、復活した主イエスを信じる事です。
キリストは私達の罪を赦すために、十字架にかかって下さいました。十字架のいさおしによって、罪が赦され、神と和解しました。割礼を受ける事ではなく、キリストを信じる信仰によって救われ、神の民となるのです。
Ⅱ 心の割礼
神がアブラハムに、割礼をお命じになりました。割礼は契約の民となるために、肉体の一部を切り取る儀式です。神は民に痛みを与えるために、この儀式を命じたのでしょうか。神は無意味なことはされません。申命記30:6に「あなたの神、主は、あなたの心と、あなたの子孫の心に割礼を施し、あなたが心を尽くし、いのちを尽くして、あなたの神、主を愛し、そうしてあなたが生きるようにされる。」と書いてあります。神は「あなたの心に割礼を施し」と言われました。これは体ではなく、心を包む皮を取り除く事です。
神が人に求めているものは、心を尽くして、精神を尽くして、思いを尽くして神を愛し、自分と同じように隣人を愛する事です。心の皮とは全き愛をもって、神を愛し、人を愛する愛を妨げる心を覆う罪の性質を指しています。申命記10:16「あなたがたは心の包皮に割礼を施しなさい。もう、うなじを固くする者であってはならない。あなた方は心に皮がかぶっているため、うなじがこわくなっている、」と書いています。イスラエル人が頑なで、頑固で、不従順だったのは、愛を妨げる、心を包む皮があったからです。
罪の性質が心を覆っていているならば、神が求めている、愛に生きることが出来ません。「心の包皮を切り捨てなさい」とは、肉体の一部を切り裂くことではなく、心がきよめられ、「心を尽くし、精神を尽くし、あなたの神、主を愛し、それであなたが生きるようにされる。」ことです。
人は神と人への愛に生きようと努めれば、努めるほど、それが出来ない自分に気付くのではないでしょうか。聖と愛の生活をするために、「神に背く何か」が心を覆っていて、私の願う愛に生きる事ができないでいます。「心を覆う何か」が除かれ、神のかたちに造られた心になるなら、本当の愛に生きることができます。その心を覆う何かを除いていただくのが「心の割礼」です。
コロサイ2:11-12に「キリストにあって、あなたがたは人の手によらない割礼を受けました。肉のからだを脱ぎ捨てて、キリストの割礼を受けたのです。」と記されています。「人の手によらない割礼」「キリストの割礼」は、心の割礼を意味しています。聖書には続いて、「バプテスマにおいて、あなたがたはキリストとともに葬られ、また、キリストとともによみがえらされたのです。キリストを死者の中からよみがえらせた神の力を信じたからです。」と記されています。バプテスマは水の中に全身を沈める儀式です。そして水の中に全身を沈める時に、自分は全く水の中に隠れます。これは、罪深い自分の死を意味しています。「バプテスマによって、キリストと共に葬られ、」とありますが、信仰によりキリストと一つになり、キリストが十字架にかかり葬られた時、キリストと共に葬られたのです。すなわち、私達の自我もキリストともに十字架にかけられて死んだのです。
バプテスマを受け、水から上がってきます。それは古い人に死に、新しい人となって生きることを意味しています。「キリストと共に甦らされ」とは、キリストは復活しました。もしキリストの死と一つになるならば、キリストの復活とも一つになります。私達の自我がキリストと共に死ぬのは、キリストと共に生きるためです。もしキリストと共に自我が死んでいるのならば、キリストが生きられたように、私達も新しい命に生きるものとなります。もはや私が生きているのでなく、キリストが私のうちに生きているのです。
キリストにあって、人の手によらない割礼を受けました。肉のからだを脱ぎ捨てて、キリストの割礼を受けたのです。
心を覆う自我が妨げていて、神の要求される愛と聖の中に生きることができませんでした。しかしその自我が死んだのです。もはや傲慢、憎しみ、自己中心、争いを生む自我は死にました。そして心の中にキリストが生きています。キリストが私の心を治めてくださり、キリストが私の言葉、行動の源となって下さいます。神を愛し、神に仕えていくことに喜びを感じる、そして隣人を愛し、愛に生きていこうとするようになります。
これは人の力や努力によるのではありません。自分で自分の心を変えようとしても、人の決心は心を変えません。心に割礼を施して下さるのは、神の力によります。神に全てをささげ、キリストの血潮に信頼するなら、またキリストと共に死に、キリストが私の内に生きていると信じるなら、神は心をきよめて下さいます。心を覆うものが除かれ愛の人となるなら、心から流れる愛により、神が要求されている愛と聖の生活ができるのです。
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