牧師 新澤昭彦師
聖書箇所 創世記21:8-21
Ⅰ イシマエルの誕生
アブラハムが神に従って、故郷を出発した時は75歳でした。そして、85歳になっても、アグラハムには子どもがありませんでした。
女奴隷ハガルによって、子供をもうけるようにという、妻サラの言葉を聞き入れ、ハガルによって、子供をもうけました。神が定められたルールは守らなければ、祝福はありません。ハガルは、自分が身ごもったのを知って、自分の女主人を軽く見るようになりました。サラの心は穏やかではありませんでした。アブラハムに「私に対するこの横暴なふるまいは、あなたの上に降りかかればよいのです。…彼女は自分が身ごもったのを知って、私を軽く見るようになりました。」とアブラハムを責めました。アブラハムはハガルの処遇をサラに任せました。それで、サラは彼女を苦しめました。サラのひどい仕打ちに苦しめられ、ハガルはサラのもとから逃げ去り、家を出ました。
主の使いが荒野にある泉のほとりで、彼女を見つけ、声をかけました。「サライの女奴隷ハガル。あなたはどこから来て、どこへ行くのか。」するとハガルは。「私の女主人サライのもとから逃げているのです。」と答えました。主の使いはハガルに。「あなたの女主人のもとに帰りなさい。そして、彼女のもとで身を低くしなさい。」と言いました。そして、「わたしはあなたの子孫を増し加える。」と約束しました。ハガルはアブラハムの天幕に戻りました。そして彼女は男の子を生み、イシマエルと名付けました。
Ⅱ イサクの誕生
アブラハムが99歳の時、彼の天幕に、3人のみ使いが訪れました。アブラハムは彼らを迎え入れ、もてなしました。そのうちの一人が「わたしは来年の今ごろ、必ずあなたのところに戻って来ます。そのとき、あなたの妻サラには男の子が生まれています。」と約束しました。
主は約束した通りに、サラは身ごもり、男の子を産みました。アブラハムは、自分に生まれた子、サラが自分に産んだ子をイサクと名づけました。
イサクが生まれた時、アブラハムは、百歳でした。神がアブラハムに語られた約束は実現しました。アブラハムはイシマエルとイサクという二人の子に恵まれました。しかしイサクは約束の子で、イシマエルは奴隷の子でした。正しい結婚によってではなく、浅はかな人間的な知恵によって生まれたイシマエルの上に、不幸なことが起こってきます。
イサクが成長したお祝いに、盛大な宴会が催された時、サラはイシマエルが、イサクをからかっているのを見ました。それを見て、サラは耐えることが出来ませんでした。今後イサクの上にどんな事が起こるのだろうか。サラは心を痛め、サラはアブラハムに「この女奴隷とその子を追い出してください。この女奴隷の子は、私の子イサクとともに跡取りになるべきではないのですから。」と言いました。この言葉で、アブラハムは非常に苦しみました。
アブラハムは「その少年とあなたの女奴隷の事で苦しんではならない。サラがあなたに言う事はみな、言うとおりに聞き入れなさい。」と言われる神の声を聞きました。そこで アブラハムは、翌朝早く、パンと、水の皮袋を取ってハガルに与え、彼女の肩に担がせ、その子とともに彼女を送り出しました。それで彼女は行って、ベエル・シェバの荒野をさまよいました。ハガルとイシマエルは、アブラハムの家から追放され、行く先の当てがなく、荒野をさまよう身となりました。いつかはそのパンと水もつきます。
Ⅲ 神の慈しみ
ハガルはイシマエルを連れて荒野をさまよいました。やがて皮袋の水が尽き、パンもなくなりました。次に来るのは、飢えと死です。ハガルはイシマエルを一本の灌木の下に放り出し、離れたところに座り、「あの子が死ぬのを見たくない」と思い、声をあげて泣きました。
神は隠れた所で見ておられる方です。神は少年の声を聞かれました。神の使いは、「ハガルよ、どうしたのか。恐れてはいけない。神が、あそこにいる少年の声を聞かれたからだ。立って、あの少年を起こし、あなたの腕でしっかり抱きなさい。わたしは、あの子を大いなる国民とする。」と言いました。
神がハガルの目を開いてくださり、ハガルは井戸を見つけました。それで、井戸に行って皮袋を水で満たし、イシマエルに飲ませました。こうして荒野で、神はハガルと、イシマエルを守り養いました。やがて、イシマエルはたくましく成長し、荒野に住んで、弓を射る者となりました。
ハガルとイシマエルは苦しみの中にいました。うえ、渇き、荒野で死を待つしかない状況でした。自分が弱っていく、それ以上に、我が子が衰弱し、助けてあげる事ができない。ハガルは、その場で泣き伏していました。
ハガルとイシマエルは、アブラハムの家から追放され、帰る家もありません。しかも、イシマエルは何の権利も持たない奴隷の子でした。愛される資格がないものです。しかし苦しみ泣いているハガルに神が示されたのは慈しみでした。神は慈しみ深いかたで、どのような人にも慈しみを示されます。 聖書は、神の慈しみを記しています。
「主に感謝せよ。主はま事にいつくしみ深い。主の恵みはとこしえまで。」(詩篇136:1)。イスラエルに、そしてすべての人に、慈しみを示されました。
「異邦人もあわれみのゆえに、神をあがめるようになるためです。」(ロマ15:9)。イエス・キリストによって、すべての人に神の慈しみは示されます。
「背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。あなたがたが救われたのは恵みによるのです。」(エペソ2:5)。神の慈しみは、神に背いてきた人にも示され、 救って下さいます。
「主はいつくしみ深い。主に望みを置く者、主を求めるたましいに。主の救いを静まって待ち望むのは良い。」(哀歌3:25.26)。哀歌の背景にあるのは、苦しみと悲しみです。悲しみ、苦しむ人に神の慈しみは示されます。誰もが、人生の中で、苦しみの中を通る事があります。人は弱いです。苦しみの中で、悩み、涙を流す事があります。神の姿は見えません。しかし神はご覧になっていて、慈しみをもって、私達を助けて下さいます。
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