牧師 新澤昭彦師
聖書箇所 ヨハネの黙示録19:1-10
黙示録17-18章には、大淫婦のさばきが記されています。大淫婦は獣からも憎まれ、神のさばきに会い、滅んでいきます。続く19章1-10節には、天での讃美、そこでは小羊の婚礼の時が来たと歌われています。11-21節では、キリストは地上再臨され、獣に打ち勝ちます。
Ⅰ 天における讃美
19:1-10には、天における讃美が記されています。その場所は天です。パウロは、第三の天(第二コリ12:2)という表現を使いました。第三の天は飛行機が飛ぶ天、太陽月星が輝く天ではありません。自然界にある天ではなく、次元の違う、神様がいますところ、神の国としての天です。そこは神の栄光に輝いていました。そこには御座があり、父なる神様が座につき、小羊なるイエス様がいらっしゃいます。4つの生き物、24人の長老達が御座の周りにいました。そして、多くのみ使いと、多くの群衆がいました。
1-3節、大群衆が大淫婦の審判、キリストの勝利を讃美しています。
4節、二十四人の長老たちと四つの生き物が讃美しています。
5節、御座から声、
6-8節、再び大群衆が賛美しています。その声は、大水のとどろきのような、激しい雷鳴のように響き渡りました。
この箇所で、「ハレルヤ」という言葉が4回あります。ハレルヤはヘブル語です。ヤーは神様です。神様をほめたたえよと神を礼拝し賛美する言葉です。
大群衆はイエス様の十字架の贖いを信じて、救われた人々です。初代教会の時代から、今日まで、どんなに多くの人が救われ、永遠のいのちを持ったことでしょう。その人々は空中再臨の時復活し、天に携え上げられました。その人々が大群衆となって、天で讃美しています。
Ⅱ 小羊の婚礼
6-8節では、大群衆が小羊の婚礼を讃美しています。
教会についてはいろいろたとえられていますが、小羊の婚礼で花婿にたとえられているのは、教会であり、そして私たちクリスチャンです。
10人のおとめのたとえでは、10人のおとめが、花婿の到着を待っていました。花婿が到着したのは深夜でした。賢いおとめ達はあかりと共に油を用意していましたので、花婿が到着した時、花婿を迎え、共に婚礼の祝宴に行く事が出来ました。これは、主が空中再臨され、携挙される時の事です。
真のクリスチャンは天に引き上げられます。天に上げられた教会は、小羊の婚礼に臨むために備えをします。地上では、患難時代があります。患難時代に、反キリストが登場し、神と聖徒に激しく戦いを挑み、多くの聖徒が殉教します。また大淫婦は獣(反キリスト)の上に載って、富をほしいままにし、聖徒を苦しめ、その苦しみ、また殉教を見て、酔いしれるように、喜びます。しかし、大淫婦は裁かれ、滅びます。それが1-3の賛美です。
そして天において、小羊の婚礼の時を迎えます。婚礼は花婿と花嫁が一つになる事ですが、教会はキリストと結ばれ、ひとつになります。一般の結婚では、二人は結ばれ、そして新しい住まいに住み、新しい生活が始まります。キリストと一つになった教会は、天から降ってきた新しい都、神の国でキリストと一つになり、永遠に住む事になります。それは大きな喜びです。「私たちは喜び楽しみ、神をほめたたえよう。子羊の婚礼の時が来て、花嫁は用意ができたのだから(7節)」。これは神が、キリストを信じる者に与えて下さった約束です。
Ⅲ 花嫁の衣装
8節に 「花嫁は、輝くきよい亜麻布をまとうことが許された。その亜麻布とは、聖徒たちの正しい行いである。」と記されています。キリストの花嫁が身に着けている衣装は、輝くきよい亜麻布です。これは高価な、美しい記事でしょう。その衣装を身に着けて花嫁は婚礼の席につきます。
その亜麻布とは、聖徒達の正しい行いです。花嫁は美しいウェデングドレスを着て婚礼に臨みます。汚れがあったら花嫁衣装にふさわしくありません。
キリストの花嫁が婚礼の席に着く時のふさわしたはきよさです。そしてキリスト共に神の国に住みますが、神の国にふさわしい品性はきよさです。
私達は、かつては神から離れていました。神の事を考えない、きよく生きることを求めない生活をしていました。しかし、ある時、イエス・キリストを救い主として心の中に迎え入れました。その時、私達は救われ、神の子となりました。聖書には、「神から生まれた者はだれも、罪を犯しません。神の種がその人のうちにとどまっているからです。その人は神から生まれたので、罪を犯すことができないのです。」(第一ヨハネ3:9)と書いてあります。救われた人の中に神の種が宿っているのですから、罪の生活ではなく、神の子たちは神に喜ばれ、正しく生きることを願い喜びます。
私達は正しい生活をすることを願いますが、心の中に罪の性質があり、葛藤を覚え、悩む事があります。その汚れた心をもって、生きるのではなく、聖書はキリストの血が全ての罪から私達をきよめると約束しています。.神は私達を赦して神の子にして下さっただけでなく。神の国にふさわしい者、神の子と呼ばれるにふさわしいものとするために私達をきよめて下さいます。
神様に全てを明け渡し、そしてイエス様の血によって、心をきよめてくださるように願うならが、そしてキリストの血が全ての罪から私をきよめて下さると信じるなら、神は心をきよめて下さいます。
もし私達の心に汚れがあるなら、霊的に成長しません。元気がなくなります。けれども心がきよめられるなら、神と人を愛する自由があります。神の恵みによって霊魂は成長し、喜びと確信をもってクリステャン生活をするようになるでしょう。キリストに仕えることが喜びとなるでしょう。
キリストの花嫁の正しい生活は、規則を作り、人間的的努力で身に着けるのでなく、恵みによります。心がきよめられ、キリストに対する純粋な愛があるので、神の御心を行う事を喜びとし、そしてきよい、正しい生活をするようになります。その人の正しい行いは美しく、キリストの花嫁の衣装です。
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